ヴェネツィアのサンマルコ広場にはカフェ・クアドリ(18世紀創業)やカフェ・フローリアン(1720年創業、ヴェネツィア最古のカフェ)といったカフェがあります。
サンタマルコ広場の、その店先にはステージとカフェテラスが設けられて音楽を楽しみながら「お茶する」ことができます。
サン・マルコ寺院を背景にジャズを聴く、というのは、まあなんというか・・・。
ここからは見えませんが、鐘楼の屋上から天使ガブリエルも耳を傾けているのでしょうか。
横位置あるいは(⇔)記号のある写真はクリックしてご覧ください。 (⇔)

テラスの席にもつかないで、いつもの「写真撮っていいですか?」サインを送って撮っています。
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何と言っても「観光都市」ですから、どの方も愛想がいい。アイ・コンタクトでお許しをいただいています。

このバンドマンはたまたま自分の演奏パートが「休止」だったために楽器を倒していたのですが、わざわざ立てて画面作りに協力してくれました。
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投宿したホテルがこの広場から歩いて2分とかからない場所にありましたから、「あっ! 音が聞こえる。」というわけで早速散歩に来ているわけです。
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名所旧跡もいいですが、私はどちらかといえば、こうした現在の人々の活動に目がいきます。
周囲を見ると・・・観光地ですから・・・多くの人がカメラをもって撮っています。どうやら、一声かけるものは少ないようです。
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「郷に入っては郷に従え」といいますが、日本から来た写真愛好家としては、一応の御挨拶です。
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こちらは別のバンドですが、実はこちらの方が撮影の時間帯が早く、お客さんはまだこれからというところです。

左手のコントラバスの方に「どうぞどうぞ」と合図をもらったのですが、画面では怖そうな表情の方ですね。
でも、目が合ってやり取りするときはとても気さくな笑顔をしてくれました。
外国語のできない私ですが、写真を撮る楽しさに加えて、こうしてすこしでも交流できる喜びを感じると、とてもうれしくなります。

麻生氏がナチスの政治手法を学べと発言した件で、世界的な批判が集中している。
大阪市長橋本氏が、自らの国語能力のお粗末さを世間にさらしたことについては、今さらここには触れない。真実を読もうとしないものには何も見えないのだ。彼は自らが従軍慰安婦問題で世界的批判を浴びたので、政界の実力者に同情して援護射撃をしておけば、仲間が増えて自分の慰めにもなり、またいずれ沈みかけた船から別の船に乗り移る時に何か利益になるだろうと計算しただけにすぎないことだから。
次の写真は、イタリアの駅構内の本屋の書架です。
日本の駅売りの本といえば時間つぶしの三文小説か、自宅に持って帰れない類の新聞・雑誌が少なくない。
それに比べて何と充実して、真面目なんだろうか。
イタリア人が、明るくおおらかで、おおざっぱで、勤勉でなく、政治はいつまでも不安定で・・男は・・女たらしばかりだ、などとだけ侮っていてはいけない。
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ご覧のように20世紀の現代史の本がずらりと並び、ムッソリーニ、ヒトラー、毛沢東、レーニンなど、現代を語る上で避けて通れない人物を対象とした書籍が何冊も何冊も並んでいる。
これだけの書物を店頭に並べて書店も出版社も、採算がとれているのだ。
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日本のことも忘れてはいない。
スポーツの場に旧帝国海軍旗≒旭日旗をもちこんでも恥ともせず、相手国の人々がそれをどう思い、どう感じるのかを想像することも、斟酌することもできない国民は世界から軽蔑を受けている。そのことを知らねばならない。
そういうことになるのは自国史とアジア史、世界史が国民の中に貧困だからだと私は思う。
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ファシズムについて今日でもこれほど真剣に繰り返し検証しているのがイタリアをはじめとする世界の「民主主義国家」の姿なのだ。
自国の抑圧と侵略の政治史を「自虐史観」の名のもとに書き変えようという日本とはおよそ趣が違う。
過ぎたことは忘れよう。被害者に対していつまでも「文句を言うな」とののしって、真実に対して目をふさいでいる国とは違うのだ。
その意味で日本の政治はグローバルスタンダードから大きく外れている。

靖国問題や、憲法改悪について国民の間に批判が高まり、騒々しくなるのをうまく回避して、国民が気付かぬうちに憲法を変えてしまえばよいなどと考えている麻生氏は、何をどのように誤解されたというのだろうか。
私は、麻生氏は日本国憲法下で国会議員であるべきではないと思う。
■ 写真は、つい数日前にイタリアに行った時に撮ったもので、まさか帰国後間もなく、こうして利用することになろうとは夢にも思いませんでした。
テーマ:ある日の風景や景色 - ジャンル:写真
- 2013/08/04(日) 00:01:38|
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