写真の方は植田正治氏の息子さん。といっても植田氏が2007年に87才でなくなっていますから、息子さんもそこそこのお年です。
みなさんご存じのように植田正治写真美術館は鳥取にあります。
私も数年前に行きましたが、「遠い」です。写真美術館の前にバス停がありましたからバスでも行けるんでしょうが周囲は、まあ田園風景と言ったところです。

植田正治の写真は今でも人気があり海外でも注目されているわけで、私も好きなんですが、なかなか現物を見る機会がない恨みがありました。
そこで息子さんが、じゃあこっちから見たい人たちのところに出かけようということで、巡回展をすることにしたのだそうです。
その初めの地として選ばれたのが京都。これから各地に行くそうです。

この展示会場では、彼の代表的傑作を目の当たりにできるのです。しかも、リ・プリントではなくて植田自身がプリントした多数の作品が並びます。
その写真を見られたのが三条通りと神宮道の交差点を100メートルほど上がったところにある京都写真美術館です。
しかも、なんと無料なのです。(この写真美術館で今年の11月に10回目の個展をする予定だということはくどいほどお知らせしてきました。)
そしてこの写真の方が植田正治のご子息である植田亮氏。氏が丁寧に解説してくれました。

植田亮氏は鳥取まで出かけないとみられない写真をより多くの人に見てもらいたいという思いを持たれて、今後、様々な都市でも同様の写真展を開きたいと計画されているそうで、植田氏とともに来られているスタッフの方々も丁寧に説明をしてくださいました。
以下、「独断と偏見」の私見ですが、・・・・
戦後の写真史の中で木村伊兵衛や土門拳と並んでファンの多い写真家に植田正治という人がいることをご存じでしょうか。
彼の写真は「植田調」などと言われて木村や土門などが「リアリズム」を追求し喧伝したのとは大きく違った「演出」した写真を世に出しました。東京を中心にした写真界、その核に木村や土門がいたわけですが、リアリズムが大きな力を持った時に鳥取の砂丘から、ここに植田ありと声を上げていた人物です。

◆木村や土門たちはリアリズム精神から「被写意識を少なめる」技法で撮るとした木村、「絶対非演出の絶対スナップを基本的方法」とするとした土門らだったけれど、その後リアリズムが形式論としてしか理解できない人々によって、戦後のあの時期(つまり、それは大日本帝国期の後ということですね)に何ゆえに彼らがリアリズムを主張したのか、「ありのままの現実を見る」ということを何に対する対抗意識、変革意識として理解するかというような問題意識の希薄化に伴って「乗り越えていく」人々が出てきます。・・・私の感想です・・・。
(つまり、大日本帝国期にはありのままに見ることができなかった、妨げられていたということであり、この戦争は負ける、皇軍は朝鮮や中国ではひどいことをしている、聖戦なんてものではありはしないというありのままを見ないで「万邦無比」やら「大東亜共栄」やら「八紘一宇」やらの飾り立ての中に「ありのままに見ること」を奪われた時代の「後」だという認識が希薄化していく。)

◆一方、植田の前衛的演出が持っていた(認識と表現を深化、正確化する方法としての)「レトリックとしての演出(この言葉は私のもの)」が、エンターテイメント的な演出、内容にリアリズムを欠く演出へと「乗り越え」られてきたのではないかと、思っているわけです。・・・「個人の感想です」
日本の文教政策が根底から崩れようとしています!!
▲▽▲文科省:私立理工系学生にだけ手厚く奨学金。文系学生はそっちのけ?!▽▲▽
◇読売新聞がつぎのような報道をしていました。
「日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁(78)は7日午後、8日の任期満了を控え、退任に際して記者会見した。黒田氏は2013年
3月の就任からの10年間を振り返り、一連の金融緩和によって「政府のさまざまな政策と相まって※1 経済・物価の押し上げ効果
を 発揮した。物価が持続的に下落するデフレではなくなった」と、成果を強調した。」と。
※1.政府の金曜財政政策が軸のように聞こえるが間違い。
※そもそもインフレと「物価上昇」を混同させて国民に説明している時点で経済専門家として国民に対して科学的な誠実さがない。
👨今の物価上昇はインフレではなくて供給過少(だから相対的には需要過大)と需要とのギャップで物価が上がっている。その根幹
がエネルギーと食料の供給不足で、経済の基礎的な財だから広範な品目で価格が上がっている。が、そのことと貨幣が代表する「価値」が減少して全般的に価格上昇を引き起こすインフレとは別問題だ。
だから対策はおのずと変わってくる。この認識がずれていれば政策が見当外れになるのは当然。
黒田氏はデフレではなくなったという。「インフレ率2%になれば景気はよくなり賃金も上がる」ともいっていた。では「デフレ脱却」をした今はどうか。景気はよくなっていないし、賃金も上がっていない。これでは文字通り看板に偽りがあったというほかない。ありていに言えば「経済学の装いをして嘘をついていた」ということだ。
もとより少し真面目に経済学を勉強した人からすれば、当初から眉唾の議論だった。
なるほど一部大企業が粉飾的に賃上げをしているが、それも、これまであまりに低水準だったために調整が若干進んだというだけで決して物価上昇を追い越して生活が良くなるというような賃上げではない。なんといってもその賃上げは勤労者全般に起こっていることでは全くなくて大企業中心にごく一部での話。勤労諸階層を分断して大企業の労働者を差別的に企業への従属・忠誠を強めるように抱き込むための費用として「賃上げ」をしているだけ。その原資は、ますます増やされている非正規雇用者や下請け孫請けの労働者の低賃金により賄っているに過ぎない。勤労諸階層の総所得が増えるかどうかが問題なのだ。
さらに黒田氏は言う。
◇「物価目標の安定的な上昇率2%が達成できなかったことについて、『デフレ慣行』が根強く残っていたことで安定的な実現まで至
らなかったことは、残念だ」と述べた。一方、最近の動きについては、「賃金が上がらないという『慣行』は変わりつつある」との見方も
示した。」
※デフレを「慣行」だといっている時点でもう経済学からずれている。
👨 「慣行」の部分は大企業が下請けの単価をその経済的優越性を背景に押し付けていることなどを意味するならその通りだ。だが、
それは金融・財政政策の問題ではなくて公正な競争を妨げる大資本の不当な市場支配の問題であり公正取引委員会が正常に機
能すれば解決する。要は政権の問題意識と意欲の問題であり、経済外の問題である。
また、それが単なる慣行ではないというのは「デフレ≒物価下落傾向」の原因がとどのつまり勤労諸階層の収入が低水準だという
こと。中でも労働人口の過半を占める賃金労働者の賃金があまりにも低いということだ。むろん個人経営者や小零細企業の経営者
たちもまたそれ相応の所得を得ていないという厳しい問題がある。つまり購買力のある需要が伸びないために低価格でしか売れな
い現状が続いているという日本庶民総貧困問題こそが価格をあげられない問題の中核にある。
これは『慣行』の問題ではない。日本資本主義(家)の強欲度のあまりの強さの問題なのだ。別に言えば経済的格差のひどさの問
題。物価目標2%が達成できなかった原因を「デフレ慣行」という亡霊に求めていた黒田氏が、それを達成できなかったことに何ら不
思議はない。彼に足りなかったのは事実を真摯に見る科学的経済学であり、財界や富裕層に対しても公正公平に対処する「経世済
民」の経済家のマインドに欠けるということだ。
「慣行」などという亡霊と闘ってきたドン・キホーテが退場するには遅きに失したということだ。
「賃金が上がらない」のも「慣行」の問題ではなくて、財界の強欲な蓄積欲と連合という労働組合の顔をした労務管理団体が当然の
ことながら財界癒着体質であることが問題なのだし、自公政権が財界の番頭でしかないという点にある。ことは極めて意識的な政
策にある。それを慣行だというのならばこれを打破する力は黒田日銀にはなかったし、打破の方法はおのずと明確だろう。この慣行
が変わり始めているなどというのは虚言でしかない。
事程左様に黒田氏の退任会見を何ら批判的に報じるのではなくて、彼の言いたい放題を垂れ流すだけの記者にもまた科学的経
済学が欠けているし、「異次元の規制緩和」が富裕層をますます富裕化する一方で、勤労諸階層の生活をどこに導いたかを視野に
入れる庶民の生活感覚もまた欠落している。
○○ こうした時に私たち生活者が科学としての経済学の基礎知識を持っているかどうかは実に大切な問題だ。
もし大学においてまともに経済学を学んだほどの人ならば、学んだ学派や潮流の違いはあれ、こんなずさんな言説をそのままにはしないだろう。
もっともこういう黒田氏ばりの経済学がハゲタカ強欲経済の本家アメリカから輸入されて、そういう経済学を振り回すような人が大学で大手を振り、また重宝がられているのは残念なことだが。
近代憲法というものが「人民の基本的人権を、それを常に侵しがちな政治権力から守るために、その政治権力を拘束するために制定されたものだ」ということは、高校の公民や政治経済の授業で話される基本中の基本なのだが、それが国政を担当する与党の諸君にはほとんど全く理解されていない。そして国民の多くも卒業する以前にすっかり忘れている。けれど大学の法学部で学んだほどの者は明確に理解し、ただそういう言葉を覚えているのではなくて、そうした法観念が生まれてきた歴史や闘争、それを支える思想、各国における実現の仕方のバリエーションなどなどを多角的に学び、崩れにくい知識として身に着けている。そういう法学部出身者がこの国の市井に一定割合いることがこの国の政治をまともな範囲に押しとどめる力となり、同じ国民の蒙を啓く役割を果たすだろう。
それは社会学や歴史学や教育学や文学部などなどにおいても同じだ。
こういう「文系」学部出身の厚い層がこの国を知性と理性に富む安定した国にしてくれる。
それなのに文科省はこの文系学部を大学から消し去ろうとしている気配がある。
奨学金を理系学生に限って与えようとさえ言いだしているし、文系学部を減らして理工系のみ増やそうとしている。
理由は明らかだ。
理工系学部の学生は「金になる」
文科系学部の学生は政権の政治の私物化や軍拡などの暴走を抑止する理性として働く邪魔者だ。
この二点だろう。
- 2023/04/09(日) 00:00:04|
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