ミュージカル・ソーですね。
理屈から言うと一弦の楽器みたいなものでしょうか。それもその弦をのテンションを調整しつつ弾くという。
前日のチャップマンスティックほどではないけどマイナーな楽器ですね。(案外演奏者は多いのだそうですけど)
中国の二胡の奏者が注目したそうですが、音のひゅじょうから言えばよく似ていますね。

この人は既に奏者として様々な機会を得て演奏している人のようです。
鉄の板の端を掴んでいた全体をたわませて弾くのですから結構力がいるのかもしれません。
握りの部分大腿部で押さえるんですが、こちらのほうから揺らして音を作ることもあるようです。

ちょっと野外では演奏が難しくなる音量かなと思いましたので、あの握りの部分い筐体をつけて響かせてはどうかなと思いました。
この楽器の生まれた地では「のこぎり」のイメージから離れられないでしょうし、日本で改良してみたらどうでしょうかね。
ただまあ実際のところは、ノコギリを擦って音を出しているというところに興味を引く妙味があることは確かでしょうから、その形状には工夫が要するでしょうが。
この人はチェロ用の弓で弾いていましたが、バイオリンのものを使う人もいるようです。
傍らにマレット(ティンパニをたたくときにつかうような、先端に玉をつけた棒状の用具)を置いていましたから、たたいても演奏するんでしょう。

この人は電線に止まった雀などの並び方、あるいはタイルの模様などから音符の列を発想して演奏することもするんだそうです。
そうなれば山並みや夕方のビルの屋根の連なりの形状からも一曲できそうですね。

写真撮影をお願いしたら、自転車が邪魔でしょうからと言って動かしてくれたのですが、その自転車をわざわざ画面に入れて撮る私です。

今日の京都盆地は晴れています。気温も少し上がっていて結露を乾かしたりするために窓を全開にしてみました。「大丈夫だよ。」といっていた寒がりの娘は、私が二階に上がると、直ちに閉めてしまいましたが。
西ノ京にAMS写真館というのがあってそこに写真ギャラリー(ABOX)があります。いま京都市保育園連盟の写真展があります。保育士たちが日ごろの保育の中で撮った写真が展示されていました。子供たちの日常は被写体の宝庫である上に、保育士さんたちの中にもなかなか腕の立つカメラパースンがたくさんいますから、いい写真がズラッと並んでいます。
私など最近は何を見ても涙がこぼれてきますから、こんな写真の中にいる子供たちの表情を見ているとたまりませんね。
中高生もこうやって撮ってあげたいなあと思います。
(でも学校や保育園というところは、今や恐ろしく警戒心が強く事なかれ主義に追い込まれていますから・・自ら事なかれ主義のたこつぼに入っているのは昔からですが、そこにさらに追い打ちをかける社会事情がありますからね。・・とても無理な話でしょう。写真が子供たちに自身の素敵さを発見するうえでとても役に立つんだということを世間【教育界も】は知らないのですよね。)
そんな保育園ですが、子供を家庭≒母親に押し付けたい安倍的・旧統一協会的自公政権は、・・・・軍拡の煙幕としては子育て支援についてぶつくさ言ってはいても、子育て支援の本気度は、実に寒々しいものですから、保育士の配置基準は長年劣悪なまま放置されているのが実態です。 子育てについての知見が進み、また社会的な要求水準も上がっているのに、そういうことはすべて現場の保育士の献身的労働に押し付けたままです。
試みに、皆さん、一つの想像をしてみてください。
あなたが、5歳児(つまり就学直前の子供たちですね)30人を一日保育するとしたらどういうことになるか。
午前中には主活動をし、昼には食事をさせて 午後は昼寝(昼寝だって子供はただ寝ているだけなのに何がしんどいのって思う方は実情をご存じないのです。30人の子供一斉に寝かしつけるには熟練の高等テクニックが必要なんです。)とその後の自由遊び。夏にはプールがあります。主活動のための準備や片付けや保育計画づくりや保育日誌書きや便りづくりや保護者とへの声掛けや職員会議や運動会やお泊り保育などの行事の準備や片付けや・・・などを勘定に入れないとしても、朝から晩までの間この子供たち≒30人とずっと一緒に明るい気持ちで接し続けるのです。 最近いろいろな保育士の不祥事や犯罪と言ってよいことが人々の耳目を集めていますが、それが世間の「クレーム圧力」をさらにさらに強めています。保護者の要求や園に対する非協力。(サービスを受けるお客さんとしてしか発想しない・・そう言うように新自由主義が人々を育てたし、政府の行政マインドがそういうものになっている。・・・親たちの要求は肥大化しています。だから保育士の神経はズタズタにされているのです。これは学校も同じ。)
そんな状況で週休二日でさえない労働者、公務員並みでさえない低賃金の労働者として健全な精神と体をもって子供たちにかかわる自信が皆さんにありますか。
一歳違う6歳の小学校一年生は机に縛ることができて、「先生」は教壇の向こうに立ち、「先生の言うことを聞いて勉強ができるようにならないといい中学高校大学に進めないよ。」という圧力が子供を抑え、午後になれば「放課後」となって一応会議や書類書きや教材準備の時間があることになっているのです。保育園にはそういうものはないのです。
その小学校は30人学級です。副担任もいたりしますし、音楽や体育の専科教員体制もあります。
保育園にはそんなものはありません。(だからと言って小学校の先生方が楽をしているとなどと言おうとしているなんて思わないでくださいね。)
さすがに5歳児では昼食を一人一人に食べさせることや排便の支援・介助などはないでしょう。けれど保育は教育よりずっと広い内容を持ちます。子供がだれかがケガをした時、喧嘩を初めて一人の保育士の手が取られたらたとえ副担がいたとしてもその保育士が後の28,9人を一人で見ることになります。子供の自由な遊びを保証すればケガをします、喧嘩もします。それを4歳児、5歳児では一人の保育士が30人を見なくてはいけないのです。
株式会社でも保育園経営ができるなどと経営主体を広げて保育を金儲けの種に提供している自公政権です。そうして生まれた保育園では子供の行動をできるだけ抑えて昼寝を机に突っ伏してさせるようなところさえあったりしました。つまり、通常の感覚?では、「30対1」の配置基準では、こどもをブロイラーの鳥かごのようなものに入れた状態にしないと〔保育〕はできないということなんです。戦後積み重ねられてきた保育労働者の研究や実践は、そういう悪条件下でもより良い保育を築いてきました。が、それは保育労働者の保育に対する夢と希望が支えてきたというコトなのです。財界や政府はそのことにかまけて保育行政の改善をさぼりにサボってきました。1998年にゼロ歳児の保育基準が「6:1」から「3:1」に変わりましたが、1,2歳児は1967年いらい50年間ずっと「6:1」のままです。4歳児、5歳児にいたっては1948年(日本国憲法施行の翌年・・・私の誕生よりもっと昔の話)以来の基準です。・・・つまり敗戦後の焼け跡闇市をようやく抜け出すかというような時の基準がいまだに続いているのです。
その間に日本の経済力、大企業の資産はどれだけ大きくなっているか。
その間には存在しなかった自衛隊という名の日本軍が世界第5位ともいわれる強大なものに育っているのですが、子供たちの保育基準はずっと変わっていないこの現実。
こうした状況を変えよというと自公民政府やそれに加担する維新や国民民主などはすぐに財源が・・・というのです。
問題が財源にあるのではないことは明らかです。(この背景に彼らの(似非)伝統的な家族観、子育て観があるということもまた指摘しなければなりません。ジェンダー平等論はこういうところでも大切なカギを握っています。)
四月には統一地方選挙があります。
子供や孫たちのために賢明な選択をしようではないですか。
- 2023/02/05(日) 00:00:04|
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