ここに来ればいつも誰かが弾いている・・・という訳ではない。
それに撮る側の都合とわがままな好みから言って・・・うまいでしょ?!という感じや何か乱暴な感じのする人、演奏・音がガサツな人、ましてやエチケットも守れない人などは撮りたくないので・・・・ピンとこない人もいるから手ぶらで帰ることも度々です。
で、こんな人がいると俄然、撮りたくなるんですよね。

この人が一度弾いた後に女性二人がクラシックの曲を弾いていました。
その間、この人は傍らのベンチにいて膝の上の手指でエア鍵盤を弾いていました。

「先ほどの演奏、よかったですね。」と声をかけて、もう一度弾くなら撮らせてくれませんかとお願いしました。
「ただ、僕が撮ると写真は公開することになりますが、大丈夫ですか?」
「ええ、いいですよ。」
いや、この人のピアノはちょっと楽しみになんてものじゃなくて、多分・・・・。
「お酒がおいしくなるようなピアノですねぇ。」
眉間の盛り上がり多々がいいですねえ。

あとで話してくれたんですが「お酒をおいしくするピアノ」を弾いているんだそうです。 東京で。
やっぱりね。

「ちょっと僕にもバーボンを・・・。

兼好法師の曰く。「おぼしき事言わぬは、腹ふくるるわざなり」
人に会っても天候のこととか健康のことを話して、それ以外のことには触れない。政治の事や宗教のことにはアンタッチャブル。哲学は語らない。人の作品を見ても「きれいですねえ。」「素晴らしいですねえ」としか言わない、言えない。どうもそれが日本人の一般的な姿のように見える。
その原因の一つは「思しきこと」を持たないからなのかもしれない。まあ、それはあまりに失礼な観察だから、「思しき事」は持っているのだが言わないでいるのだろうということにしておこう。
しかし、持っているからと言って、皆が皆「思しきこと」を腹にためて「腹が膨らんで不快だ」ということにはなっていない。別に膨満を解消している≒ガス抜きをしている・・からだろうか。いや、ガスを抜かれているというべきか。
あるいは「世」と向かって軋轢の生じるようなことは考えない(おぼさない)ようにしているのかもしれない。そうすれば「腹ふくるる」ことにはならない。
多くの日本人は「智に働けば角がたつ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ」として「角を立てない生活」「情に流されない」「意地を通さない」生活に安住しようとしているのかもしれない。
漱石の含意は「とかくこの世は住みにくい」と感じるのは、「智に働き、情に掉さし、意地を通」さないで生きることを潔しとしないからだ、ということではないのか。だからこそ『住みにくい』と感じる。『住みにくい』と感じてこそ「生きる人」なのだといいたいのではないか。
(解説の多くは、「住みにくいのは嫌」だから、智も情も意地も捨てなさいという方向に解釈している。人生を住みやすく住みやすく生きるのを良しとしか考えないあまりに俗物的な腐れ儒者的な解釈というほかない。)
世人においては、安心立命、安心立がモットウなんだろうか。
私は、小人であるから、常に「腹が張って、腹が張って」たまらない。それで「腹が立つ」ことになる。だから「ものをいう」。
周囲を見渡せば、理不尽を理不尽としないで「ガスを抜かれて」涼しい顔をしている人があまりに多いように見受けて呆然とする。が、それをいえば「角が立つ」。
理不尽、不条理、無理無体をそれと認識しない、あるいはそれをスルーする方便の論法に進んで耳を貸す人、その方便の開発にうつつを抜かしている人も多いように見受ける。
その方便に、時として「論破力」だとか「宗教・信仰」だとかいう名が冠せられていたりする。
「思しきこと」を生じさせるのは現実のほうなんで、それを見ざる聞かざる言わざるにして、方便で『住みやすく』したところで現実はいささかも変わらない。もっとも「ものを言って」腹の膨満を解消するだけでは同じことだが。
- 2023/01/25(水) 00:00:01|
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