氏の名は「イヌイ ジュン」と言われる。
名刺を二枚いただいた。つまり二つの顔を持つ『男』なのだ。
もう一枚のほうは置くとして、片方には「THE STALIN」と書かれている。
その界隈についてご存じの方は「えっ?!」と、相当な驚きをもたれたことだろう。
私は門外漢だから、「????」でしかなかったけれど。
この写真展のいけたにストは昵懇の間柄らしくて、盛んに冗談を飛ばしておられる。
イヌイジュンという名のドラマーがパンク・ロック界の象徴の一人であったころ、私はそれとはまるで無縁の生活をしていた。
写真家にハービ山口という、私と同い年の方がいるけれど、彼はよく自身の過去を振り返ってこんな話をされている。
「 写真家のハービー・山口氏がよくイギリスでの若いころの経験を語るときがあります。のちに世界的なトップ、パンクロックアーティストになったクラッシュのジョー・ストラマーに地下鉄で遭遇した時に旧知の仲ではなかったけれど撮らせてくれないかと頼んだら即座に「いいよ」となったことがあったというエピソードをたびたび取り上げます。地下鉄の列車を降りるときにジョー・ストラマーが言った「You can click away of whatever you want: That's PUNK」という言葉とともに。 」
これは昨年暮れに私が説ブログに書いた記事。
つまりハービー山口氏がイギリスで疾風怒濤の青年時代を過ごしていたころにパンク・ロックが隆盛を迎えていたわけで、それが日本にも波及してわけだから、私の青年時代に並行してパンクロックの広がりがあったはずなんです。そして、そのど真ん中にこの方はいたんですね。
80年代が中心ですか。(もっとも私の青春期は60年代終わりから70年代ですが)
「人間交差『点』」は不思議な縁で作られるものです。

まだ還暦を迎えたばかりのお年頃ですから、イケタニ氏よりも二回りも若い。
二人のやり取りを成立させているのは何だろう。
「この若造が。」でも「この老害が。」でもないのはこのお二人の懐が深いからだろうし、精神の先鋭さがまさに『生』だからじゃないのかなと思ったりする。

こういう人たちに対してはファインダーを覗いているしかない。
それにしてもこの愛嬌はどうだ。

スポーツニッポン新聞によれば
「立憲民主党の泉健太代表(48)が4日、自身のツイッターを更新。初詣の投稿が“炎上”したことについて、苦言を呈した。
泉代表は1日、『新年明けましておめでとうございます。2023年(令和5年)本年も、皆様どうぞよろしくお願いいたします』と、新年のあいさつとともに、東京・赤坂にある乃木神社を参拝した写真を投稿。この投稿が『軍人を神と崇める行為』『立憲民主党は戦前回帰で軍国主義に傾倒ですか?』などとさまざまな意見も寄せられた。
これらの声に、泉代表は『何だか息苦しいですね①…』と吐露。『今年は幾つかの寺社を詣でましたが、近所の神社②で国家繁栄③、家内安全④を祈ることが“軍人を神と崇める行為”とされるとは…⑤。武人や軍人を祭神にしている神社は全国に多数あります⑥。初詣に行くと軍人崇拝なのですか?⑦』と疑問を投げかけた」とのことである。
①:政治家の行動について逐一批判の目が注がれる。それを一般国民の行動が監視されることに対する不安や、それに対する批判があることに乗っかって『息苦しい』と批判をかわす態度は彼の政治家としての自覚の欠如を意味している。まして彼は公党の党首だ。彼がどれくらい歴史や文化や、思想や宗教や、自然についての見識を持っているかは国民的な関心となるのは当然ではないか。それゆえに批判の対象とも
なるのだ。
②:「いくつかの神社」にはその来歴や宗教的文化的意味合いが異なるものが含まれる。それを区別しないで、ただひとくくりにして「神社」だとすることは、例えば靖国神社や伊勢神宮などについて、その政治的宗教的意味を、事実を踏まえて深く考えようとする知的姿勢が欠如していることをうかがわせる。加えてそれらの政治的意味についての関心の薄弱なこと、警戒心のなさをうかがわせる。
③:国家というのは政治的組織のことで国民共同体とは異なる。国家とはきわめて階級的な存在だということ、そうとらえることはマルクス主義的政治論の独占物ではない。
彼の頭の中にすぐに浮かび出る『国家』繁栄という語彙の持つ意味を彼の思想の表象として確認したい。彼には国家が第一ではあっても国民が第一ではないのかと。国家と国民を混濁させる思考は「危ない!!」
④:何を祈るかの例示が「国家繁栄と家内安全」だということの持つ意味もまた考える必要がある。とても現代の日本の庶民のために何ができるか、何をすべきであるかということを考えている人のそれとは思えない。いいかえれば、ほかに祈ることはないのか。
⑤:泉氏が訪れたのが乃木神社であることを彼はほとんど歴史科学的にとらえようとはしていない。彼の知的世界の狭さと薄さを思わせる。乃木は「軍神」であって決してニュートラルな普遍的な「神」ではない。彼を「神」にしたのは「明治『天皇』」であって、天皇が人を神にさえするという政治的メカニズムに対する、そしてまたその社会思想的な意味合いについてあまりにも無頓着である。軍人を神にしたことの意味を問うことのない政治家が現代の国会に議席を占め公党の党首であることの文化的無残、思想的浅薄を思うと深刻である。
⑥:なるほど軍人、武将を祭神とした神社は各地にたくさんある。多数あるから、その神社に参ることが軍人崇拝ではないとなぜ言えるのか。ただ「みんなで渡れば怖くない」ということでしかないではないか。また「軍人崇拝、忠君愛国を普及させようとして創建された神社」が長年の間になぜ、どのように多数に上るようになったのかを不問にして・・・つまり時の政権の強制や学校教育などを通じての誘導することで軍国主義的愛国心の醸成が行われたことを言っているのだ。このことを不問にし、無思慮に参拝するということは、泉氏には、こうした政治に対する反省も警戒心もないことを問わず語りに示している・・・・、ただ多数あるから、多くの人が参拝しているから問題はないというのは知性の退廃であり、政治家としての底なしの認識不足である。現実には多数存在して多くの人々が参拝しているが、それに対して「気づいてほしいことがある」「忘れないでほしいことがある」と問題提起するのが、かえって、政治家の役目であろう。
多くの人が無自覚に「軍人」を祭った神社に行っていて、その心は「積極的に」軍人を崇拝するものではないというのも事実だろう。しかし、泉氏がそこにとどまっていてよいというのとは同じではない。
⑦:「初詣」であれ何であれ、軍人を祭神とする神社に参拝することが、軍人崇拝に加担することではないかと批判を受けることは自然なことだと私は思う。それを泉氏が『息苦しいと感じる』政治家であるということが問題だ。
そもそも乃木や東郷や・・さかのぼって信長、秀吉、家康さらには正成など、そもそも人間が政治的恣意によって神になどなってたまるかということだ。田村麻呂の時代≒古代的迷妄の時代ならともかくとして、「近代」の名を求める時代にあって「人が神になる」という迷妄を無自覚に肯定して歩くなどということは政治家としてのいや近代人の思想的、文化的軽薄さを如実に示しているというべきだろう。
乃木神社を、自然との葛藤、あるいは部族や村落という共同体の結合、労働の組織などのために、その時代の人々の科学的な知見の程度に応じた能動的な意識の結晶として生まれた神社と同一視することはできない。
私も建勲神社に行くことはあるし北野天満宮に行くこともある。しかし、決して祭神とされているものに手を合わせることはないし、・・・その「神が」できもしないことを求めて・・・「祈る」こともしない。私が境内にあって手を合わせたり礼をしたりするのはそこに集まる人々の「心の一面にある真面目」に対する尊重の気持ちからだ。
- 2023/01/05(木) 00:00:07|
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