「記憶はいつか消えてなくなるのでしょうか。私たちの中にある記憶は他者からみることはできませんが、表現によって何らかの形が与えられる時、それは他者にも共有することが可能になります。そのように個別体験が、ある技術や意志によって外部化され、鑑賞体験を通じて他者の記憶の一部になることで、記憶は多くの人に伝播していきます。…以下略」
「私はメモリー展」の印刷物の冒頭の言葉にありました。

写真などは極めて直接的に、このように言える「表現」だと思いますし、絵画その他のさくひっももまたそう言えるのだと思います。
「モナリザ」と称されるレオナルドの絵はレオナルドの体験≒記憶が時間と空間を超えて「共有」され続けています。

私のこの写真に閉じ込められた記憶も、皆さんが見てくれることで、私から皆さんにジャンプして行きました。
そのためにカメラがあり、現代では写真データとその画像変換装置が介在して、記憶の連鎖を作ります。

そしてこの会場に並べられた作品から、作者たちの記憶をひも解いて追体験しようと熱心にご覧になっていたこの人の存在について「共有」してもらえるわけです。

記憶、それはまた情報でもありますが、私たちは、そうして共同の「記憶≒情報」を持つことができます。
それが「コモンセンス」の醸成に一役買うのだと、私は思います。

ここに展示された作品。それはある意味で作品=表現とは言えないかもしれません。
これを描いたり制作した人は、他者に見せるとか評価してもらうとかいうことを度外視しているかもしれないからです。
制作過程が全部的にその方の生、そのものであるということです。
制作者の呼吸であり鼓動が外部化した。生の物質化に他ならないのです。
作ること自体が生命活動であり、生の感覚の租借だということでしょうか。

「作品」からは、あまりに「いじらしい」生を見る気がしました。
そういう感じを呼び起こさせる作品を時間をかけてじっと見入るこの人はきっと「素敵な人」なんだと私は感じました。

この人自身も絵を描かれるんだそうで、つい先ごろこの建物の二階で開かれていた美術展に作品が出されていたとのことでした。
私のカードをお渡しして、写真を撮らせていただきました。

世間の表側には、まるで鍋の上に浮き出したあくのような吐き気を催させる人間が大手を振っていますが、しかし、ちゃんとこういう感性を持った人がいるんだということがうれしいですね。
私の「人を撮る」活動は、そういう人の記憶を多くの人に共有してもらう活動だといってもいいのです。
- 2022/12/26(月) 00:00:01|
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