
仏教国からキリスト教国、イスラム圏にも深く入ってのウクレレ放浪旅。
日本の「仏教」は果たして仏教であるのか・・・というかなり大きな問題があります。
この人はいわゆる上座部仏教圏も歩き大衆部仏教圏も歩いています。
そうした中で「日本の仏教」について大いに考えさせられた様です。

私もしばしば日本の宗教界についてよそながらかなり否定的に見ていました。が、この人の考えを聞いて、なるほどそうだと思うことがありました。



この人の話したほんのちょっとしたことがきっかけになって、こんなことを考えたのです。
それにしてもユーラシア大陸を歩いた人の見識は、本当に広いものだなあと思ったことでした。

今、旧統一協会のことが話題になっています。
私は、旧統一神霊協会を単純に宗教団体だとする考えには強く反対するものだし、・・・・だからと言ってあれを「反社会的団体」であるという面に絞って批判あるいは非難するということについては問題を矮小化していると考えているのですが・・・・この団体を勝共連合という柱と不可分のものとしてみないと評価を誤るとみています。
そして先の「反社会的団体」という点に絞って、宗教団体であることを( )に入れてしまって何ら問題にしないということにも賛成できないのです。
もっとも現時点では、問題を広げると、焦点がぼけてしまって、自民党政治の根っこからの腐敗を追及できなくなるので、そこはある程度セイブすべきだとはわたしも思っているのですが。
よく、何かの集まりがあると「政治と宗教とプロ野球のことは話題にしないようにしましょう。」などと幹事や主催者が言い出すことがあります。
成程、関西で虎退治を叫んで話題にすれば、会が成り立たないことはよく分かります。
ですが、政治と宗教の話題を避けて通ってきたことは日本の政治的、あるいはより広い文化的土壌を貧相にさせてきたと私は考えています。
ことに政治問題を表立っ議論できない、話題にできないという強い空気は、結局、支配政党側に断然有利となります。
政権や与党に追従する態度の現れが「政治、宗教、野球については話題にしないように」ということなかれ思想として表れているのだと思います。
ヨーロッパでは啓蒙時代に大いに宗教が批判されました。それで宗教、信仰の側の考えも相当深まりましたし、それまでの妄信や偏見・差別を取り除く努力が進みました。
日本にはこの文化革命的な過程がないままに来ています。
そして今日でも「宗教のことはアンタッチャブル。宗教は怖い。」で終ってしまっている現状があります。
そのために宗教、信仰の質が世の中から問われないで来ているという実情があるように思います。
だからこそ旧統一神霊協会などがはびこるのです。
端的に言って統一神霊協会の数百万円の壺と、500円とか千円のお札やお守りとの本質的な違いはなんですか?
神社や寺院で「拝観料」なるモノをとっていることに信仰上、宗教上の問題はないのでしょうか。拝観は宗教的行為ですか?観光じゃないの。
コロナ失業などで職を失い住居を失った人を、門を開けて受け入れた神社、寺院は一体どれほどあったのでしょうか。決して多くの寺社が助けの手を差し伸べたとは言えないのではないですか。そういうことで、寺社=宗教教団・僧の存在意義はあるのでしょうか。
京都にも有名寺院がたくさんありますが、その門前に炊き出しを受ける人の列が長く続いたなどと報じられたものを見たことがありません。 かつての五山などはどうしているのでしょう。東西の本願寺は? きっと何かしているのでしょうね。きっと。
日本の宗教は世間から批判を受けなくてはならないと私は思っているのです。
私の住まいの近くにある神社の屏には自民党の看板、ポスターが貼られていますが、政治と宗教の問題は総点検する良い機会です。
その意味で、旧統一神霊協会問題はその一つの良いきっかけだと思います。それを宗教の側から、信仰者の側からも提起するべきでしょうね。
大きな、しかも深く、センシブルな問題ですから時間をかけてじっくりお互いの知恵を出し合いたいものです。
それで、私は今『基督信徒のなぐさめ』(内村鑑三)を読んでいます。
信仰者の気持ちが私にはわからないからです。
- 2022/09/15(木) 00:00:04|
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