華奢で小柄な人です。
この人の手指が職人のそれになってくるのを見てきました。
「かよわい女性の手指」(あえてこう書きましたが、この人は自律性に富んだしっかりした方です。)と働く逞ししい手指との併存する姿が、私には一層、美しく見えます。

七宝をされる方を時々お見かけしますが、全体としては衰勢は否めません。
そばらしい技術で、製品も美しいのですが。
そんななか、頑張って、腕を上げてきています。

お隣の府に住んでいますから、このお仕事の時にしか会えません。
それがいささか残念ではあります。
この時の、撮影をお願いする口実の一つは、シグマのレンズを試したいということでしたが、 私の腕が追いついていないけれど、マニュアルフォーカスも操作しやすいし、明るいレンズで明瞭度も高いので、このD850の光学ファインダーと組めば、「いけそうだ」という感触を得ました。
何より楽しさ、ワクワク感を取り戻せそうです。

写真は、何より被写体の魅力に心躍らせるところから始まります。
・・・という訳で、現代写真が「なにを撮るか」ではなくて「何で撮るか」に変わっている、などいう御説には、どうぞご勝手にというしかありません・・・
つい先ごろ、最近京都の繁華街に進出してきたギャラリーが、あり写真家の遺作を展示販売していました。
価格が表示されていましたが、「●、000,000円」でした。
思わず顎が外れそうになりました。 まあ、こういうものにそれだけお金を出す人がいて、この写真を「素晴らしい」と持ち上げる人がいるのは、この世の中は幾層にも異空間が重なっているという事でしょう。ばかばかしい話だと私は思いました。
- 2022/08/12(金) 00:00:04|
- 工芸
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