60歳過ぎたら「キョウヨウ と キョウイク」が大切だそうで、こんな私でも市内のギャラリー巡りで絵や写真やを見て歩きます。
( ここでいう「キョウヨウ」とは「今日の用事」があることで、「キョウイク」とは「今日行く」ところがあるという事だそうです。)
そんなギャラリー巡りで米寿や傘寿を記念して個展をされる人もいれば、美術系大学の現役学生という人にも会えます。

ただまあ、お客さんは私一人ではないわけで・・・・。
先ほどまでこの方の作品のことについて語り合っていたのですが、幸か不幸か別のお客さんが見えて・・・。
作者の上田さんとは、ちょうど私が人物写真をとっていて、お願いしようと思っていたところですと話していたのです。
「こんな風に撮っていただく経験はなかったのですが・・・・。」というところで、お客さんが現れました。

あるジャンルで名のある方のようで、さらに別の方が連れて来て紹介されていました。
確かに仕事の一つを聞いた時には「ほう、そんな仕事をされていたのですか。」という方でした。
それまでに、お客さんと話しているときには作品を展示している作家さんは自身お作品位ついて、制作過程について話すので、いい表情をされるのですよ、と話していましたので、これ幸いとカメラを取り出して横から撮りました。

勿論、お断りしていない、今現れたお客さんは、人物が特定されるようには、撮りません。
そこは写真を撮る者としての最低限のエチケットです。

この人の作品は、ネット上で見つけた写真を4色に分解し、色のドット数をどんどん減らしていって、解像度をグンと下げたものです。
丁度、一昔前の新聞のカラー写真を虫眼鏡で見たような感じですね。
ただ虫メガネの場合は、画像の一部しか見えませんが、この人のはそうして色分割し、解像度を落とした画像の全体が、ミラー素材にプリントされているのです。

、
すると写真が具体的な人物の目鼻を消されて、背景の情報も具体性が捨象されて、抽象的な「人物のいる情景」になります。
そうして人物の個別性や状景の個別性が捨象されると見えてくるものがあります。面白いです。
さらにこの人が言うには、現代は写真ばかりではなくて実に刺激的な情報が自分たちを取り巻いていて、その圧力に気おされそうだ。情報過多だし、それらの情報には、いわば添加物がてんこ盛りで、どぎつくて時に体に(心)に悪い。
それでずっと情報を減らして見てはどうかと考えたんだそうです。
抽象画というのがあって、抽象の対概念は捨象ですが、一体何を捨象して、その抽象は具体と、どうつながっているのかなどということはまるで考えられていない、ただ具象画ではないという意味の非具象画=抽象画だとしているのが一般です。
私は少しばかり哲学をかじっていますので、その具象、抽象(捨象)の考え方に違和感があって、時々挑発的なことを投げかけてみるのですが、その問いの意味も理解されないで「抽象画」なるモノを画かれている作家が多いです。
「心象画」とでも言えばいいのになと思います。
「哲学の貧困」です。
- 2022/06/29(水) 00:00:02|
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