トランペットの音が対岸まで届いていましたので、川を渡って聞きに行きました。
京都の街区の広がりの古今を比較する掲示板を見ている振りして聞いていました。

すると間もなくトランペットをケースにしまい始めましたので「もう終わってしまうんですか。残念だなあ。」と声をかけますと「聞いてくれていてんですか。今度、ステージがあるので度胸を付けるために吹いていました。じゃあ、続けますから聞いてください。」ということで続けていただくことができました。

やっぱり楽器は生の音がいいです。
とあるブラスバンドに加わっていて、今度「桂」の方で演奏会をするのだそうです。

「ハトと少年」なども吹いてくれました。

話しかけた時には橋の下におられましたから、光と影がうまい具合にせめぎ合っていましたが、「撮らせてもらえる」ことになった時に、おそらく気を回して・・・・明るい場所に出てくれました。
それではと、緑を背景に撮ることを考えたのですが、ちょっと絞りの開け方が中途半端だったかもしれません。
楽器のボケを大きくし過ぎないようにということと相反関係になっていたかな。

「ちょっとこうしてみて」とお願いするときにも必ず音を出してもらいます。
ファゴットなどもそうなんですが、楽器を演奏するときには、ほとんどの場合に必ずしも綺麗な顔や姿にはなりません。それはある種、撮る方もとられる法も抵抗感になりますが、それでも、形だけだと、やはり演奏の姿にはなりませんから。

6月21日の夏至の日には清水寺で「音楽の祭日」の一環として「百本のトランペット」の演奏があります。
この日はプロ、アマの演奏家が無料で音楽演奏をして、聴衆とともに平和を願う日として、世界数百カ所でイベントが行われます。
前回は、私も写真集づくりのスタッフとしてかかわりましたが、今回は、・・・・前回のその気配があって、幾人かは大いに不満を持ったのですが・・・どうも趣旨がずれてきていることと、とにかく権威やマスコミに対して上目遣いで、そういうものによって飾られること、評判になることに気持ちが行き過ぎている感じがして、当初から距離を置いています。
それでもトランペットを吹く人を見ると、「音楽の祭日」の本来の趣旨を伝えながら清水寺でのイベントを宣伝してしまうのです。何でしょうね、この心理。
私がそんなイベントに関わっていたことを誇りたいんでしょうかね。


今日は6月23日。
沖縄の6月23日
この6月23日は沖縄では県独自の休日としています。「慰霊の日」です。
1945年の3月に始まった米軍による沖縄上陸作戦は、米軍の熾烈な艦砲射撃や火炎放射器などを含む殲滅戦、そして、沖縄を本土防衛の捨て石とする希望なき戦い、日本軍の拙劣な作戦と沖縄住民を盾とし、また棄民する行為により多大な犠牲者を生んだ戦争が、この6月23日に日本軍の組織的な抵抗が止むという形で終りました。
沖縄軍総司令官の牛島満中将は戦闘敗北を覚悟し各部隊に命令を下した後に自決した。その命令には「予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」とあり、指揮官の自分が任務放棄して自死に至ったのちも最後まで降伏することなく戦って死ねと命じるものであったのです。
到底挽回不能な地点に立っても兵士や県民の犠牲を顧みることなく戦闘の継続を命じておきながら、自分自身は敗戦の将の屈辱を逃れるために自死するというこの大日本帝国軍指揮官の在り方は天皇以下の全戦争指導者の多くに共通した思考でした。彼には戦闘後に兵士の無事を確保し県民の保護にあたる任務があるはずなのに、そんなことは帝国軍人の意識には登らなかったのです。
アジア・太平洋戦争(第二次大戦)で日本は、甚大な被害を他国民に与えるとともに自国民自身も兵士一般国民を問わず多大な犠牲を被むりました。ですが戦争前の日本国土の中で他国軍の上陸を許した地上戦によって蹂躙されたのは、沖縄県のみなのです。それ以外の本土を防衛=国体(天皇制)護持 するために、アメリカ軍の消耗を強いて、降伏交渉をいくらかでも有利にしようという腹だったのです。
この地上戦の一応の終結が1945年6月23日。
沖縄ではこの地上戦の犠牲者を悼んで、この日を「慰霊の日」としています。
けれど、本土世界では、それを意識する者は政府を含めて極めて少ないし、黙祷ひとつないのです。
対米従属、再び戦争のできる国への一里塚としての6月23日
さて、1960年に改訂された日米安全保障条約。その「改定」によって日本は駐留米軍を守る義務を負い、経済的にも文化・教育的にも自主的な防衛力育成に相応しいものにすることをアメリカに約束することになりました。こののち愛国心教育が明確に学校教育の中に浸潤させられていくのです。
この安保改定に反対する大国民運動がおこりました。
当時、片田舎の小学生であった私たちがグラウンドでスクラムを組んで「アンポハンタイ アンポハンタイ」と言って遊んだくらいに「安保改定反対」は国民的な声になっていました。
この改定安保条約締結の批准国会が開かれ、全国から集まった何十万の人々が連日、国会を十重二十重に囲んで批准反対を叫んだのです。
当時の岸信介総理(安倍晋三の祖父)はCIAのエージェントであり自らの命(A級戦犯として処刑される可能性が大きかった)と政治生命のためにアメリカに国を売った人物です。かれは国会に警察を導入して反対勢力を排除するという蛮行を繰り返し、再び戦争への道を開くことに対する怒りに加え民主主義を根底から崩しているとして国民の怒りに包まれました。
東京だけでなく全国各地に「岸倒せ!」の圧倒的な声が広がると、岸は警察力やそれまで岸に協力していた暴力団の力だけでこれをおさえる自信を失いました。児玉誉士夫を頼って今日でいえば広域暴力団の主だった親分に力を貸してもらうように要請することまでしたのです。さらに自衛隊の治安出動を画策しもしました。もし仮に自衛隊が治安出動していれば内戦状態を生むことになり多数の犠牲者が出ることになっていたでしょう。しかも、そういう内戦状態を引き起こすためには「安保反対派が暴力行動に出たためにやむを得ず・・。」という状況を作る必要があると考えて、当時、全学連執行部を握っていたブント(共産主義同盟)の唐牛健太郎に右翼の大物の田中清玄が接触し、国会への暴力突撃を演出するよう指導するとともに資金を提供し、政府による反対行動弾圧の口実づくりを画策したのです。
そしてこういう過激な行動は、東大の樺美智子さんが圧死させられるという事件を契機に一時的には高揚を見ましたが、結局は多くの人をこの反対運動から遠ざける役割も果たしました。
国会は、自民党による反対派排除の上での強行採決で条約批准がされ、基本的には今日の日米安全保障条約に通じる条約が成立したわけです。
そういう意味で6月23日は、日本が再軍備路線へとさらにステージアップして突き進み、しかもその軍隊は米軍を補完する従属軍であり、経済・文化を含めて、総体としてアメリカに従属するという体制が成立する・・・・今やそれが国是のごときものになり、野党を名乗る政党ですら疑問をいだくことのない日米同盟体制となっているわけですが・・・節目の日だったのです。
それだけではなくてアメリカに対する従属体制のためには国会に警察を導入し反対派を排除して採決を強行するなどという民主主義の乱暴な蹂躙がされた日でもありました。アメリカに対する従属体制を構築・継続するためには、自衛隊をもって日本人同士が血を流しても構わないとする岸信介の考えは、孫の安倍晋三にも脈々と受け継がれているのではないかと心配します。
憲法改正が叫ばれ、原潜の保有、核兵器のシェアリングが公然と話題にされる今日、私たちはこの二つの「6・23」を深く深く思い出すべきだと思います。
- 2022/06/23(木) 00:00:04|
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