演奏する人の真横、両脇に注意書きの看板が立っているので写真の絵づくりにおいては極めて邪魔です。
ホントに!! まるで敢えて妨害しているかのようです。 【誰も撮る人の事なんか考えませんよね。】
寄るときにも邪魔ですし。

あと1メートル右手においても掲示の効果は変わらないと思うんですけどねぇ。
ちゃんと注書きをしていたでしょ?!というための位置かなと思います。 美感覚がないなあと思います。
人生を美しくしよう、人の心の楽しさ、快適さを慮ろうという気持ちにかけます。
まあ逆ギレ的八つ当たりですけど。

駅のあちこちにあれをするなこれをするなという掲示が溢れています。
座り込んでいたり、勝手なところで喫煙する人たちに対して「ここでは遠慮願います。」という時に「そんなことどこにも書いてないじゃないか!」と言われたくないのでしょうね。
それでこれでもかというほどの数の印刷物が柱と言わず壁と言わず貼ってあります。数メートルに一枚という感じの場所もあります。

床やエスカレーターや・・の清掃は本当によく行き届いていて綺麗で清潔に保たれていて、それの従事している労働者には時々有難うと声をかけたくなります。
でも管理的な立場の人は美観より、不都合な人の排除と反撃の防止の方に気持ちが幾のでしょうね。
現場で対応する担当の職員の苦り切った顔が思い浮かびます。
公衆道徳は地に落ちていますからね。
でも、それにしても京都の玄関口がまるで美的でないことについて京都駅としてはどう考えているのかなと、これまたいつも思います。

バスや電車に乗れば、立つな、喫われ、バス停で止まるまで立ち上がるな、立っている人はつり革や手すりをもてとくりかえし繰り返いくりかえしアナウンスします。
何かあった時に「ちゃんと注意喚起していた」というアリバイ作りでしょうね。 人を一個の人として尊重し、自己責任に任せることができない未成熟な社会なんでしょうね。子ども扱いです。

日本の道義やエチケットは人々の自律的な品性として維持されているのではないから、人の目がなければ何でもするという同義とエチケットでしかないわけですね。
匿名のネット社会での荒廃がそれをよく示しています。
誰が行ったか行かないかわからない選挙の投票には、だからいかないのです。 主権者としての自覚や責任感などないわけです。
選ぶに足る候補者がいないから行かないなどというのはただの逃げ口上です。 マスクのようにはたから見えるのなら、着けるのです。

この方は多分人格的にもとても紳士なんだろうなあと、その音や表現から感じます。
演奏が終わって、私が帽子のつばに手をかけて「ありがとうございました。」と礼をすると、「ありがとうございました。」と返礼されました。
そして一人に許された時間をきちんと守って、すっと去っていかれました。
- 2022/06/10(金) 00:00:03|
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