私は数年前に、京都ファインダー倶楽部の写真展に還暦以降の男たちの写真で参加したことがありました。
それを、またやりたいと思っているのです。
あるギャラリーのオーナーは「若い女性でやってくれ。それでないと客が来ない。」というのですが、まあ、それは確かだとしても、若い女性の「ポートレート」では食い足りない感じがどうしてもあるのです。
それにファインダー倶楽部の写真展は、私以外のメンバーの集客力が大変なもので、毎日2,3百人が来られますから、集客について心配する必要は全然ないのです。

ジャガードを使って負っていた88歳の方の写真を撮った時にも、こうして木村氏を撮った時にも、「素敵な人たちと」をテーマにして写真をやってきてよかったなあと思いました。

このブログには掲載していませんが、ある芸術支援のNPO法人の責任者の方を撮った時にもそう思いました。
その方はその写真を妻君に見せて「これを遺影に使うから、よろしく。」と話したそうです。
ちょっと制約のある環境で撮ったので会心ではなかったのですが、ともかくもそう言っていただくと嬉しいものです。

私も好きだった作品を書いていたある作家が亡くなって数年が経ちます。それで彼の七回忌に当たって冊子を出そうという話が進んでいるとのことで、「あなたが彼を撮った写真が、彼のもとにも大切に保存されていた。葬儀の時に使った写真も含めて、その中から適宜数点を選んで冊子に入れていいか?」と言っていただきました。
彼を悼む気持ちは同じですので快く承諾しました。 この時もこうして役立つことができて、写真を撮ってきてよかったなあと思いました。

前にも何度も書きましたが、人を撮ることは「人間(人生)交差点」を形成する行為でもあります。
お付き合いとしてはごくごく浅いものですが、話しかけ、応えていただき、無理なお願いを聞いていただけたという「交差点」の「菱形」が写真として残っているという事です。

この方は東京のお住まいなんですから、私と出会う確率はどれくらいのものだったんでしょうね。
カメラを持って出かけ、話しかけ、了承していただけなくてはこの地上に存在できなかった写真です。
新京極商店街に松本人志の顔が大きく垂れさがっています。それだけでこの商店街には足を踏み入れたくなくなります。
ところで、
白井聡氏の『永続敗戦論』の25ページに次のような文章がある。
「とはいえ、『戦後の日本史なんて知らない。学校の授業はそこ間にたどり着く前に終わってしまった』という声があるかもしれない。私が、本書を通じて読者に訴えかけたいのは、まさにこうした姿勢を金輪際捨て去ることに他ならない。
生きるために――――すなわち、自らが生き残り、そして他者と共に生きていくために――――学校で教えてくれようがくれまいが、必要であることに変わりはない。
そもそも、こうした言葉を発する人は、戦後史に関して何かを自ら知ろうとしたことがあったのか。
知ろうとする者にとっては、素材はいくらでもある。この言葉を発してしまう人の不運とは、知ろうとしなければならないことを誰も教えてくれなかったことだろう。」
その通りなのです。
学校で教えてくれなかったことを「理由」に、あるいはもう少し正確に言えば「口実」に、戦後史については知らないなどと言えてしまう人は戦後史については勿論のこと現代に生きている自分自身や同時代人に対する誠実さのない人だと言わねばならないと、私は思います。それは例えば三重水素(トリチウム)って何ということだってそうですよね。これ、大気や海に放出していいの?
思い出すのは「(沖縄県知事だった・・アオキ)翁長さんは、当時の菅(すが)官房長官に正面切って(沖縄の現状の劣悪さ、日本政府の非情さを・・・アオキ)訴えたのであります。それに対する菅長官の答えは、『戦後生まれなので、沖縄の歴史については分かりません。辺野古が唯一の解決策だ』というものだったのです。」という深刻なエピソードです。
せっかく苦労して法政大学を出たのに沖縄の戦後史≒日米安保体制についてすら学ばずに政治家になれると考える程度の知性しか獲得しなかった。そして、未だにそう考えているという不見識は度し難いものです。学校で教えたとか教えないとかの問題ではありません。
訳知り顔の大人たちが言います。「学校教えられたことで役に立ったことなんてある?!」と。その人が「役に立てないような生き方」をしてきただけの事なのです。そして「役に立つ」ということが例えば、金融工学でどれだけ人の金を掠め取ることができたとかいう程度の事だからそういうことが言えるのです。人生において人々との共同において「役に立つ」ということの高みや深みがまるで分かっていない人の「役立ち」に合わせる必要はありません。
私たちが日常触れている現象世界についての「常識」は、事柄の本質的な理解、その背後にある法則からすれば、間違っていたり、歪んでいたりするということ、また常識を超えた科学の目で見れば、新たに世界が分かるという経験をすることが学習されていない人の知識は危険です。
また一方、今日の・・・だけではなくて、いつの世でも、・・・制度的な学校で、実(まこと)にこの社会なり人間なりについての本質的で変革的な知識を伝えてくれる、知るべきことを学べるだろうと思うことが間違いでもあるのです。
典型的には「就職とは」「賃金奴隷となることだ」などということ、賃上げや減税や社会福祉の実現などが今日的な問題であると、たとえ教えてくれることがあり、労働基準法について教えてくれたとしても、そもそも「賃金『奴隷』」としての被抑圧や差別の現状や、そこからの解放の条件や方途についてなど教えてくれるはずもないのです。原子力村の利権構造について、物理の先生が、社会科の先生が、教科書に沿って教えてくれると期待できるでしょうか。
学校知だけでは不十分なことは初めからわかりきったことです。
そういうことを教えてくれる奇特な先生は、ごくまれなんです。そしてそういう本当のことを教える先生は「偏向教師」の烙印をもれなく頂けるのです。
だから、そういうことは、自身で学ぶほかない、のです。
【ただ私は、だからといって義務教育や高校の授業が役に立たないとか、無意味だなどというつもりは毛頭ないのです。だから義務教育は小学校まででよいなどという議論には断固反対なのです。その訳を書くとさらに長い文章になるのできょうは止めておきます。】
「この言葉を発してしまう人の不運とは、知ろうとしなければならないことを誰も教えてくれなかったことだろう。」と書いた白井氏は、それに続く文章で「しかし、本書を手にとったとき、その不運はすでに終わったのである。」と書いています。
正しく、その通りでしょう。
- 2022/06/05(日) 00:00:03|
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