雪のぱらつく日、時雨れる日、京都の冬は天候が安定しません。 そんな時に外に出るのには覚悟がいります。
それでも前夜、床にはいって、「明日はどこに行こうかなあ。」と考えます。
( 最近、妻がよく言うことは「退職後に必要なのは『教育』と『教養』」です。もう10年以上前に一時流行した言葉ですね。
今日、行くところが『キョウイク』 今日する用事が『キョウヨウ』という訳です。 その「キョウイク」と「キョウヨウ」がないとボケちゃうよ、人生が貧しくなるよという事ですね。 )
そして翌朝、目覚めるときに「今日はどこに何しに行こうか。」と又考えます。
そして意を決して雪のちらつく街に出ていきます。 でも、鴨川の岸辺の遊歩道でペダルを踏んでも人影はまばらです。
こんな時雨れる日に外に出てくるなんて「酔狂だねぇ。」
でも、外に出なくては人に会えません。 出れば誰かに会えるかもしれません、話が聞けるかもしれません、そして写真を撮れるかもしれません。 そうは言っても、全く誰とも会えず、誰とも話さず、無論、写真一枚撮らないで帰る日もあります
そんな手ぶらで帰る日でも、「いいじゃないか。15、6キロほどは自転車で走ったんだし、健康のためにいいことをしたんだから。」無駄じゃないよと。
さて、そんな、多分、誰にも会えないだろうなあと思った日に・・・・。
こういう写真を撮れると何だか幸せな気持ちになれます。

この日ここには既に一度来ています。 そしてもう一ところで「会えるかも。」と思った人を見つけられなくて、まあいいさ、今日は時間に余裕がある、と。
・・・・・
変なおじちゃんが来て、大きなカメラをこちらに向けてるよ。

「ボク」とお母さんが連弾です。
「ボク」は目をつぶってしまいましたが、この撮影がお母さんの了承を得ているという「証拠」のために。

お母さんがずっと低音の方に手を伸ばすと、「ボク」はずっと高音の方に一杯に手を伸ばします。

何かお二人の共有の曲があるようで、時々口ずさみながら、「お母さんはね、・・・て弾くんだよ。ボクはこっち。」

「この指でね、こうやって弾くんだね。」

とても仲良しのお二人です。

度々の緊急事態宣言やまん延防止措置によって経営が困難に陥り、バイト先・パート先を失い、人員整理の憂き目に遭っている人々が多数います。それでもういい加減にしてほしという気持ちが世間の隅々にまで浸透しています。もっともなことです。それで「こんな取り組み意味ないよ。」「検査だって隔離だって無駄。」「コロナはただの風邪と同じなんだから。」という声が出れば、エビデンスのあるなしにかかわらず、すぐに同調したくなる心情は噴出直前のマグマのように溜まっています。
もう規制や自粛はこりごりだというところに、依然として行動自粛や営業自粛を求める行政や発言者がいます。するとそれは邪魔ですからその立場の声を無力化するためにそれを支える科学や医学の無力化を図る人たちがいます。無力化のために科学や研究者に対する不信感をあおるのです。その時に、科学的な適否よりも、別角度の既得権益だとか、特権的立場だとかに目を付けるのです。(自粛を求める側にも「糞や味噌」・・いや言葉の選択が悪いですね「玉も石も」と言い換えましょう・・が混じっているので、そこを突けば合理性や正統性の仮面をかぶることもしやすいのです。)
一般に日本人は科学に弱い。「科学的だ」と言われるとすぐに信じてしまうという意味でも「自ら科学的に調べ、考え、判断することができにくい」という点でも。
そこを意識的につく人の声が最近大きく高い。独唱から合唱になってきている。
「もう飽き飽きだ、なんでもいいから解放されたい!」というような心情を敏感に察知して、その心情をうまく利用して発言することに長けた人たちがいる。
「耳を澄ます」必要があります。
- 2022/01/28(金) 00:00:05|
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