
このギャラリーでは、この奥庭で立体作品を展示するようになっています。
庭の向こう側に高いビルが建つようになり景観が変わってしまいましたが、ギャラリーオーナーのHさんは作家たちの要望に応えて頑張っておられます。
一方またギャラリーは作家たちに支えられるという訳ですが。
木の枝から落ちた葉は「木から独立したのだ、解放されたのだ。」と石山氏は言います。
決してただ死んだ、終ったというのではなくて、地上に落ちてもなおそれぞれの個性をもって存在し続けているのだと。

屋内に展示された木の板を切り抜いた「葉」たちが床に寝かして並べられるのではなくて、ことごとく姿勢は様々でも「立てられ」ているのは、そのためです。
もう存在として意味が無くなったり、役割を終え切っているのではなくて、依然としてそれ固有の「存在」を保っているのだというのです。
それでそれぞれ太〔屹立〕しているわけです。

葉の形に抜けた『跡』もまたただの空虚ではないというのです。そこから見える世界を与えているというのです。
例えば私の父が亡くなった。そのいなくなった跡が以前として私に問いかけたり、世界を見る目を与えたりしている。『跡』にもその葉の痕跡があるというのです。

「自分ももういい年やしな。そういうことを考えるようになったんやろな。」
この木かて個性があるし、葉をより遠くに飛ばして、その地の滋養にしようとしている。とんで行った葉もまたその役割をもって落ちるんやないかな。
道路に広がった葉たちを見てもそれぞれに色も違えば形も違う。それが一緒くたに掻き集められて燃やされたりするのは、なんとなくいたたまれんなあと思うんやけどね。
そうした葉たちを描いた屋内の絵が何とはなしに優しく暖かみをたたえていたのはこういう石山さんの気持ちの反映なのではないかと、「そう言う訳だったのか。」と思いました。
石山さんが「老いを生きる」私たちに対して「まだまだ」と言っているように思いました。

「生き生きとした枯れ葉」というyの葉形容矛盾かも知れませんが、どうもそういうことのようです。
どうです、この若々しい生き生き感は!
- 2021/12/24(金) 00:00:06|
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