
精華大学テキスタイルの院政、学部生の制作展。 ギャラリー・マロニエです。
この人は院生で、USAからの留学生ですね。

多分、30分ぐらいも話したでしょうか。
実に深くて広い、そして現実に誠実に向き合った見識を持った方でした。
「現代」ということを未来に向けてしっかり見つめて思索しているという感じです。 こういう人の存在がUSAの持つ強みの一面でしょうね。
(私と話をしながら物を飲んでいるなんてと眉をしかめる人もおられるかもしれませんが、これは私の差し入れ兼小道具です。
「コドウグ」分かりますか? 演劇や映画のアクターなどがもつ・・・う~ん、なんと言ったらいいか。花束とか、ピストルとか・・・。)

京都グラフィエでもそうですが、懸命に現代と格闘している人が存在する言うことを明確に示そうとしています。
ただそういう人が多いかと言えば、残念ながら・・・日本には・・・・・と思いますが。
問題を自然(史)の中で見ること、人類(史)の中で見ること、その両方が備わってこそ教養と言えるし、見識と言えるということを言った人がいますが、まさに同感です。

院政生活は研究・制作が忙しいですし、バイトもしなくてはいけないらしいのです。が、京都グラフィエの二条城の展示などは見たようです。
そこに在った作品についても肯定的評価、否定的評価とも共感するところが多くて、こういう人と出会えたのはうれしいことだなあと思いました。

私は日本語の堪能な外国の人と話す時にも、自身の日本語がずいぶんおかしくなってしまいます。 まるで昔の映画などに出てくるかたことしかできない外国人の話し方になってしまうのです。 自分でも滑稽だなあ、ある意味失礼だろうなあと思いながら。
それはネイティブ日本人より日本語が堪能なんじゃないかと思われる中国のなれしたしんだ若い友人たちと話す時でも、私の日本語にどこかぎくしゃく感があるので不思議です。)

日本人ももっとこの人のように対話する力、自分の考えを表明する力を着けないといけないと思いますね。
学校の「国語」の教科書が大幅に改悪されて効率的実用原語しか学ばなくされています。原語は思考と共感形成、弁証法的な真理探究の要です。そこを大切にしない言語教育では日本の将来はますます非文化的なものになるでしょうし、対話が一つのカギとなる民主主義はますますやせ細るでしょう。
日本の危機は経済の停滞や政治の腐敗にだけあるのではありません。
読めない、話せない、書けない人々が作られていることにも危機の一端があります。

ギャラリー巡りは作品を見せていただく楽しみと同時に、こうした教養と見識を持った人に出会える楽しみとがあります。
そこにカメラがあって、その人を撮れれば言うことはありません。
See you again.
- 2021/10/10(日) 00:00:03|
- 工芸
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