
「現代・文人光画展」に参加したことは繰り返し書いていますが、そこでのいつもの体験。
この会の主催者「京都ファインダー倶楽部」の創立メンバーの一人F氏。この方は実績のある抽象画家で大学でも教鞭を取ってこられた方です。
ただ私の感覚からすれば、既に二時代くらい前の芸術家という感じがするのです。いえ、これは否定的な意味合いでだけ言っているのではありません。

古典的な著作から学ぶときに、ここの資料は古いとか、既に新たな研究で上書きされるべきものだなどとして、丸ごと軽視する傾向がよくあります。
が、私はそういう学びの姿勢というか手法は誤りだと思っています。 鍛えられた哲学はそう簡単に捨て去ることはできません。切り拓いてきた地平というものが引き継がれないまま等閑視されていることは実によくあることです。

ですから私はその方に、「もうそういう発言はおやめになったほうが良い」と指摘しつつも何度も何度も私を含めた現代の多くの人々の精神が卑小になっていることを気づかされ反省させられています。
その方が私の写真を見て当初から今日(今回)まで繰り返しおっしゃることがあります。
「おまえの撮る女性の写真には色気がない。」

私は女性を見るときに「色気」の遠眼鏡でだけ見ることは、すでに時代の要請とは違うと思っています。
ですから、この言葉に対する反発は大いに感じますし、こうした観念が時にセクハラの土壌をなすのだろうなあとも思っているのです。
ですが、・・・・・。

私は「色気」をめぐる問題は、やはり避けて通れない問題だとも思っているのです。
私たちが人との関係性を生むときに、この性的な魅力、関心の持つ意味はやはりそれなりの比重を占めると思うからです。
かといって、それが基底であって、αでありωだという考え方に与するものでは全然ありませんが。

私の写真の基本は「ドキュメンタリーなポートレート」ですから、その写真に色気が主たる要素となることはありません。
が、私が人を撮る以上はその一形式においては、色気もまた追求すべきことだとは思うのです。
ただ、そういう目的を前面に出して、そういう写真のために人にモデルをお願いすることは、なかなかに難しいことで、実現しないというだけの事です。
- 2021/08/25(水) 00:00:03|
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