中学校の修学旅行は京都、奈良でした。あまり記憶はありませんが、新京極通りを回った時にある買い物をして、それが後刻、ちょっと問題になりました。
私が修学旅行のお小遣いで購入した物は一本のバナナとミロのビーナスの石膏像でした。お小遣いは学校が定めた1000円。ミロのビーナス像は1000円で、バナナ一本分規定を超えて、友達に借りて使ってしまったのです。バナナを先に買ったのが間違いでした。
京都、奈良に行った土産というか記念品がミロのビーナスというところに中学生だった私の気負いが感じられて、我ながらほほえましい思い出です。
少し前後した時間に、同じ場所でクラスのO君もまた同じミロのビーナス像を買ったのですが、彼は帰りバスの中をずっとそれを抱いて帰ってきました。気持ち、わかります。
学校に帰ると、私は、小遣い規定違反の咎で呼び出されて、職員室前の板敷きの廊下に正座させられました。
さんざん悩んだ挙句に、でもどうしての欲しいと思っての事でしたから、当時の私はあまり後悔・反省はしていなかったように記憶しています。
そのミロのビーナス像は今でも私の目の前に立っています。
さてその?新京極商店街の振興組合の方に出会いました。
この方は「150年記念事業実行委員会」の副委員長さんです。
この通りが新京極通と命名されたのが「明治5年」すなわち1872年の事なのです。地券が発行されて土地の私有権が法的に認められた年、福沢諭吉が『学問のすすめ』を世に問うた年です。

新京極通ができたのが150年前?! そう聞いて、「意想外に新しいなあ。おかしいなあ。」と感じたのです。私のこれまでの貧弱な知識と整合しないのです。が、地元商店街の方にそう聞いては、一知半解が基本の私に反論できるはずもありません。

それで調べてみてわかりました。「新京極通り」と命名されたのが150年前。当時の京都府参事だった槇村正直によって、この辺りの振興のために命名されたらしくて、それから150年という訳でした。
この地は、西側一帯が寺町通とその通りの東側に集められた沢山の寺院とのゾーンが南北に帯をなして続いていたわけです。
こんなことをしたのはご存じ豊臣秀吉でした。 その後、寺院の盛衰があり、又、元来、寺社の境内は参詣の人出を当て込んで見世物小屋や出店が並んでいたわけですが、この一帯は元は鴨川の河原ということで低湿地ですから、まあ極、庶民的な歓楽街へと成長したわけです。

そこに目を付けて、件の京都府参事です。都が江戸に遷ってさびれてしまいかねない京都の活性化の一つの策として、この通りにちょっと京都らしい名を付けたという訳です。 元来、鴨川を東の京極と言ったりしていましたからね。
と、まあそういう訳で、命名される前はどのように呼ばれていた河分かりませんが、劇場や飲食店に挟まれた小径はあったわけです。
合点がいきました。
少し前までは、新京極通は観光客が集まる通り。その西を並行して通る寺町商店街は地元の人の行くところでした。だいぶん雰囲気が違いました。正直に言うと新京極は土産物屋が中心でしたし、小中学生相手みたいな、一見の観光客相手ということで何やら騒々しく安っぽく、品に欠けるという感じでした。寺町はそれに比べると落ち着いて大人な感じで、でもっちょっと寂しい。
それが最近随分と変わってきたのです。

寺町にも観光の人たちや若者が流れ込んでにぎやかくなり明るい感じになりました。一方、新京極はこざっぱりして清潔感が増し新しい感覚の店舗が目立つようになりました。おそらく組合の方々を中心として取り組みがあったのでしょうね。 ずいぶん変化を感じます。
そしてこの度、命名150年を記念して一層、盛んにしようとしている中心人物のお一人がこの方。
このギャラリーのオーナーはそうしたイヴェントの仕掛けにおいては元プロですし、今も「血気盛ん」ですから、おおいに啓発されることがあるだろうと思います。
今盛んにお話しています。
私も協力できることがあればと名刺を交換しました。
「170店舗とも言われる商店街の人たち全員の写真を撮って冊子を作りましょうか。」などと冗談を飛ばしながら盛り上がっています。楽しい企画が生まれるといいですね。
- 2021/03/10(水) 00:00:05|
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