王氏です。
書家であり、水墨画家でもあり、なんと言っても文人です。
私は、私のしていることについて、意味があると思って活動しているわけですが、自分が思っている以上に意味が大きいかも知れないと思う時があります。

岐阜県の旧 神岡鉱山にスーパー・カミオカンデという巨大な宇宙素粒子観測装置があることは皆さんご存じだろうと思います。
その装置には純水が蓄えられていて、宇宙から飛来したニュートリノが水の電子と衝突するときに発生する発光を捉える。その事からそのニュートリノがどの方向から来たものかなど、宇宙で起こっている事態をつかまえようとしている・・・・らしい。知らんけど。

話の規模は天と地ほど違うけれど、私のカメラのレンズの前で、それぞれ歴史を負った人たちが私の人生と瞬時の交差点を作っていく。
そしてその軌跡をこのカメラの撮像素子に捉え、記録媒体に残す。
それを読みだして、こうしてブログがFB、あるいは私の個展でプリントとなってその交差点がが生かして人々に共有される。

その交差点は単に、線と線が交差した幾何学的な点ではなくして、それぞれの生い立ち、そして負ってきた民族的な歴史・文化が凝ってそこに交差点を作る。

テレビにも書店の書架にも沢山の知識人・文化人もどきの多くの人々の冗漫な言葉があふれかえっている。
この人がここにいて・・・・実は自転車の籠にたくさんの書に関する本を積んでいるのですが・・・・本を広げ研究の準備をしているということに、東アジアの20世紀と21世紀が凝縮している。
無論この方の話を聞く私にも日本に生きてきた一知半解の高齢者として、この人の話に頷き、聞きいるだけの必然がある。

「見るべき力をもたない人には見えない。聞くべき素養の築かれていない人には聞こえない。」
芸術にはそういう一面が厳としてある。それは対話においても同じだと思う。
それが今、あまりにも廃れていることを悲しむことを共感できた。社会の苦い、実に苦い一面を異なる位置にいてみていることを知ることができた。
私は王氏に遠く及ばないが・・・そしてそれは謙遜でもなんでもない事実なのだが・・・・率直にこのような人がいて、レンズの前で交差してくれたことをうれしく思っている。
私は一個の真剣な「士」であり「義」の知識人に出会ったのだ。
- 2021/03/02(火) 00:00:02|
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