今年の京都は静かです。
この日、いく先がはっきりしていましたし、そこは、以前は大した距離とも思わなかった場所なのですが、酷く暑いし、ちょっと遠いなあと感じている時分だったので、軽いX100Fを持って出かけようとしたのです。
なのに、なぜなのか、「いや、それじゃあ後悔しそうだなあ、85ミリのついたカメラを持って行った方がいいぞ。」と体内がゾワゾワするのです。

何か「撮るチャンスがあった時に妥協して撮るつもりなのか?」と言うような声がするのです。
X100Fだっていいカメラなんだから大丈夫なのにと自分に言いながらも別のカメラを部屋に撮りに戻りました。2台態勢です。
それは「正しい判断」でしたね。

この人たちに会う前に、当初の目的地に行って「おけさほど唯物論は広がらず」をまた苦くかみしめ、芸術界も教育界も「その哲学において未だしだなあ。」と、今や諦感が勝って、大して不愉快な感情もいだかずに、その場を去ったのではありましたが・・・。
それでも意識の底に沈殿する日本の人々の知的状況に対する苦々しさは、ポコリポコリと小さな泡となって意識の表面に浮かんできてははじけるのです。嫌なにおいを放つ泡です。でも、この人たちに出会うことでそんな感触は一挙に払しょくされました。

ここ南禅寺は、全く思い付きの寄り道でした。が、
寄り道はしてみるものです。
それにしても例年に比して静かなこと。
人柄の良さを感じさせる素敵な笑顔ですねぇ。

実は水路閣ではずっと向こうまで見通すアングルで…定番すぎるのではありますが・・・撮りたいのです。
奥のアーチに一カップルずつ二組が、涼を求めてかどうか、腰を下ろしてうごきません。 動かないのです。
ご自分たちも写真を撮ったりしているのですから周囲には水路閣のロケーションで写真を撮りたい人たちが列を作って待っていることに、気づこうとすれば気付けるはずなんですが・・・・。
仕方がないので、それらのカップルが画面に入らないようにアングルを振ったのですが、そこにまた新しいカップルが闖入して腰を下ろしてしまいました。
それでこの写真です。
私はこういったところでは必ず周囲を見回して、数カット撮ったら後の人にその場を譲ることにしています。
カメラマンのマナーについて世の人々は厳しく見ていますが、何もそれはカメラマンだけの問題ではないのです。
こうした風景を楽しむ別の人の視界を想像できない人のなんと多いことか。

”ぼーっと 生きてんじゃね~よ!” と言いたいところです。
- 2020/08/31(月) 00:00:44|
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