お知らせ
今月6日(金)から8日(日)まで京都木屋町仏光寺下がる辺りにあるギャラリー高瀬川四季AIRで写真展をします。
主催は私ではありません。「高瀬川ききみる会」です。が、展示写真はすべて私が撮ったモノです。
「高瀬川界隈の素敵な人たち」です。 高瀬川界隈に働き、住み、遊ぶ人たちを撮りました。
このイベントのことは今日明日くらいの毎日新聞の関西版の記事となって紹介されているかもしれません。
高瀬川にかかる仏光寺橋(四条通から南に歩いて6~7分でしょうか。)から下流を見て右手の建物の並びにギャラリーがすぐに見つけられます。
もしついでがおありでしたらぜひお立ち寄りください。お待ちしています。 蒼樹 私の知人が「ブログ、粛々と更新されていますね。」とメールに書いてくれました。
「粛々」とか「淡々」とか「忖度」とか・・・ある言葉に特別な否定的なニュアンスを塗りこめてしまたてぃとたちがいて、日本語は使える語意に窮するようになってしまうんじゃないかと危惧するこの頃です。
忖度なんて必ずしも悪い意味ではなくて、ちゃんと忖度できることは大切なことなんですから、「阿諛」とか「追従」とかまさにああしたことどもを表現すできる言葉があるんですから、適切に使用してほしいものです。というようなことはさて置いて・・・。
う~ん、粛々と更新しているのかなあ。「静かにひっそりと」更新しているわけでも、まして厳かにしているわけでもないしなあ…。ましてや「引き締まって」いるわけでは 到底ないし。
ワクワクと、時にうんうんとうなりながら更新しているので、・ ・ ・ ありますよ。

今までほとんど全く気にしたことのない数字。
拙ブログの「記事番号」 3250 でした。 つまり3250回も記事を書いてアップしてきたってこと?! OH! それは大したことですねぇ。 無論もっと多い人はそれはそれはたくさんいるでしょうが、・・・・私の旧友にしてからが、多分これに+365ですから・・・・3250という数字は多分相当大きな数ですよ。

それを可能にしてくれたのがこの人たちですね。
今回は少々写真の色味が違います。
印象はいかがでしょうか。

弧状にぽつんと黒子のような、ごみのような点がありますが、あれは鳥です。
なんでも絞りを開ければいいという惰性的な撮り方のせいで、こういうことになってしまいました。
ここでは背景が水だけで単純なんですからもっと絞って土地の姿はそれとして見せたほうが良かったですね。波の様子も。
まして十分な明るさがあったのですから絞ったって問題はなかったはずです。(柱が前ボケになっているのは、それはそれでいいと私は思うのですが。)

この写真はフジX100Fで撮っています。
「フィルムシュミレーション」でプロネガハイだったでしょうかね。自信ありませんが。

撮影場所は滋賀県の方ならすぐにお分かりの名所ですね。

この日は天候も良くて、この人もご機嫌でした。

ところで私にはひとつ危惧していることがあります。
政府は、例えばつい最近まで多くの人の集まるイベントなどについて自粛をもとめた際に、それぞれの主催者がそれぞれの事業の内容や地域的な特殊性などを考慮して、最終的には自主的に判断をしてほしいということを必ず付け加えていました。私は基本的な考えとしては、これは正しいと思っています。政府が一律的に「止めよ」ということには反対です。それは人々が自治的・自主的に判断をする能力を失わせることに繋がりますし、その結果、自ら責任を負わないで「政府に言われたから」と被害者意識しかもてなくなる、上意依存症に陥るからです。そして何より民主主義とは相いれません。
ですが、現政権の場合この「自主的な判断で」というのは極めて危険な含意を疑わねばならないという事情(前科といっても良いかも知れません。)があります。東京電力福島原発の事故の結果周辺地域は放射性物質によって深刻に汚染されました。そこで一定地域について避難指示が出たわけですが、その判断が遅いうえに、避難基準があまりにゆるい。それで業を煮やした人々が「自主的に」避難を余儀なくされたわけです。が、この自主避難者はその後人々のこころ無い差別の非難にさらされたうえ、政府や東京電力の補償の枠からも除外されたりしました。自主避難者の調査さえ疎かだったのです。つまり、今回も自主的な判断に対して政府は補償の義務は負わないという挙に出る可能性が高いという事です。
あるクルーズ船の乗客の方が、検査の結果陰性だったが、自宅に戻った後も自主的に継続的に病院で診察を受けるつもりだ、それは私たちから感染を広げない責任があると思うからだという意味のことをおっしゃっていました。中国の武漢が閉鎖されて極めて困難な生活を送っているが市民が長い自宅待機に耐えているのは「社会貢献だ」と言っていました。
国や民族を越えて、人々は懸命に自分のやるべきことを自主的に考え行動しているのです。政府に命じられているわけではないのですが、今のこの事態に強いられていて、そしてそれは他の市民、国民に対する自分の義務・責務だと信じて苦痛を自ら受け入れているわけです。それはまさに「公共の福祉のため」に自主的に苦痛を甘受しているのです。
それに対して政府が命じたわけではないから・・・自分で勝手にしたことにまで政府は責任を負うつもりはない、そんなことをしたら財政がパンクするなどなどとして・・・補償しないとか保障の対象から除外するということを平気でするのが現政権なのです。この点十分に監視しなくてはならないと思います。
幼稚園、小中高校が休校になりますが、この与える影響を十分シュミレーションして決断したかどうか極めて心配です。影響は深刻な規模になると思います。そこで私は、思います。この影響によって生まれる経済的な被害は勿論、ありとあらゆる不便、苦痛について声に出すことが大切だし、行政の職員、各党の政治家は自治体議員、国会議員の別なく細やかに「御用聞き」に走るべきだと。宴会や食事会などしている場合ではありません。コロナウイルスの問題は人々の命、健康を守る上で皆が持ち場、持ち場でできること、やるべきことをするべきでしょう。ある程度の苦痛や不利益も甘受しなくてはならない場合があると思います。しかし、だからと言って不満を言ってはならないとか、苦しい、不便だとか困っていると言ってはならないとかいうことでは決してないと思います。それにすべてを個人が負担すべきではありません。皆のためにしていることなのですから。ことに、経済的、社会的に弱い立場の人は耐性がないのですから自治体・政府の援助・補償を確実にすべき問題です。それは恩恵ではなくて権利です。
決して現代の「欲しがりません、勝つまでは」にしてはならないし、人々をひとくくりにして「すすめ一億火の玉だ。」にしてはなりません。
安倍氏の「それぞれの判断で」は基本的に責任の丸投げ、押しつけの言葉です。彼の無責任の象徴的な言葉です。
安倍氏の言葉、「政策」の被害を受けないためには、私たちは相互に知恵を出し合って自主的に判断し、行動すべきです。
そしてお互いにそれを尊重しましょう。
ついでですが、県内の感染者ゼロとか1、2名しか判明していないのに小中学校をすべて休校にするという判断した教育委員会や各学校というのは真に自主的・主体的に判断しましたか?
- 2020/03/03(火) 00:00:10|
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その通りですね。
国民が安易に政府の方針に従うのは、問題です。
そして少なくとも、政府としても、思い付きで政治をするのではなく、できるだけ多くの医療関係者や、自治体や現場で働く人たちの声を総合的に判断する必要があったと思います。
もちろんそうするだけの時間はあったはずです。
いずれにしても、国民は「相互に知恵を出し合って自主的に判断し、行動すべき」ときがきていますね。
- 2020/03/03(火) 18:22:32 |
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- yamashiro94 #-
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コメントありがとうございます。
何か「煽る」空気を政府筋から感じます。どういう方向へ風を吹きたてているのか気になるところです。
- 2020/03/05(木) 20:57:27 |
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- soujyu2 #-
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