2020年の京都市長選は1月19日告示されて、2月2日に投開票がされる予定です。
ですから今現在は、間もなく告示の日 です。
確かに事前運動にはいろいろ制限がありますし、告示以降はますます選挙運動、政治運動は制限が厳しくなります。.
それでと言えるかどうかはわかりませんが、とにかく静かです。
宣伝カーもわずかに見えるという程度です。
そこで「これでいいのか!!」と思う訳です。

2016年には、最終投票率:35.68%(前回比:-1.09%) でした。
つまりは三人に一人しか投票に行っていないのです。 これでは京都の市民は全国から尊敬は受けられないですよね。
尊敬は受けられないばかりか軽蔑の対象かも知れません。
そういう市民が作る街が現在のように惨憺たる観光惨状街になるのもむべなるかなという事でしょうね。

報道によれば「現職の門川大作氏(69)と弁護士の福山和人氏(58)、市議の村山祥栄氏(41)の3人が立候補を表明。8日には立憲民主党京都府連が門川氏への推薦を決定しています。」
村山氏はもともと「市長与党の末席を汚す一員」だと自認していた人です。
立憲民主党の動きは実に不可解ですね。
それはともかく、とにかくこんな投票率では民主主義の土台が崩れます。
この方が言うように「市政与党も、行政も、マスコミも、こうした住民の選挙行動によってどんどん弛緩していく。」

この方は投票に行くように訴えていて、誰かを応援するために行動しているわけではないのです。民主主義危機に対して黙ってはいられないとして個人として行動しているわけです。
今、手渡しているティッシュペーパーも、自弁です。何か組織があって、その任務としてやっているわけではないのです。(組織的に活動することが悪いとは私は思いませんが。)

「リタイア後にね、旅行に行ったり、何か楽しいことを見つけて、そういうことにだけお金を使って人生を送るのもいいけれど、やはり何か社会に役立つことをしたいよね。それが我々団塊の世代の役割じゃないの?!」
かつて大いに自由や民主主義を叫んだ団塊世代として責任を負った人生の選択ですね。
私もまったく同感です。

「人生100年時代」なんていいますが、これだって日本列島に生活してきた人々が営々と働き社会をよりましにしてきたからこその成果なのです。それを今の生きる私たちがただ自分の愉楽のためにだけ浪費して終わらせるのは、あまりに自己本位だと私も思います。歴史の過去にも未来にも私たちは自覚的に責任を負うべきだと思います。
投票率が低ければ投票に行こうと呼びかける、それが民主主義の基本じゃないかな、と。

どんな悪政だって自らが自覚的に選んでのものだったら、必ずそこから市民自身の力でまた修正をしていくことができる。私たちは騙されただけで、みんなあの人たちが悪いなどということを70年前のように言い立てるようでは、決して私たち自身が民主主義の担い手にはなれないと、私は思います。
その「良い例」が今の日本です。
- 2020/01/14(火) 00:00:04|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0