京都、堀川今出川辺りはかつて西陣と呼ばれた地域。
そこには京都西陣織会館があります。
ここでは西陣織や京友禅の職人さんが公開の実演を見せてくれます。
そんな場所に、・・・・琉球紅型の職人さんが。

沖縄の「城間びんがた工房」の方です。
この工房が沖縄では最大の琉球紅型の会社だそうで、その総力を挙げて琉球紅型をメジャーなものにしようと打って出たのだそうです。

琉球紅型は沖縄の宝でもあり、日本の宝でもあります。そうであるはずです。
敗戦必至の情勢の中「もう一度叩いてから」多少とも相手(米軍に)にダメージを与えて、降伏条件をよくしようと、如何なる犠牲を生じても「国体(天皇制)を護持」しようとして戦争をいたずらに長引かせていた天皇以下、日本の戦争指導者たちは本土決戦をできるだけ回避し、本土の被害を軽減するために敵を沖縄に引きつける作戦に出ました。
そのために制空権をもたない=護衛機を飛ばすことのできない状態であるにもかかわらず戦艦・大和も片道の燃料で出撃させるという愚かな作戦に出ました。それで大和はほとんど米軍に損害を与えることもないまま多くの兵士たちとともに海の藻屑と化しました。
沖縄は敵に出血を強いるための本土≒天皇制(国体)の壁として敵の猛攻撃にさらされることとなりました。
多くの人々の命と生活が決定的に破壊されましたが、その際に琉球紅型のほぼあらゆる遺産が灰燼に帰しました。

かつて琉球は中国の冊封下におかれ、また一方島津藩の軍事支配のもとにもありました。
冊封は中国皇帝の支配に服属する各地の王が貢納品を差し出し(朝貢)、その見返りにそれぞれの地を支配する権限を中国皇帝より認められるという国際的な秩序でした。
琉球の貢納品の重要品目が琉球紅型で染めた布でした。(ですから庶民はこれを身に着けることができない)

1945年4月から6月23日までの「鉄の嵐」によって島の形が変わると言われるくらいの打撃を受けた沖縄には伝統的で高級な紅型染めの着物もその生産のための用具も資料も灰に帰して受け継がれることがありませんでした。
それを戦後、沖縄の職人たちやそれを愛する人々の営々とした努力で回復してきはしたものの歴史的な逸品は中国故宮など海外にしか現存しないという現状があります。

中国皇帝はこうした高い技術の工芸品を朝貢してくる王たちに下賜しましたから、それらは世界に広がっていったはずです。
当然シルクロードによってヨーロッパにも届き、きっと大英博物館などにも保存されているはずです。
そこで、琉球紅型が非常に優れた工芸品であることを改めて世界に知らしめれば、かつて行き着いた様々な地に眠っている最高級の琉球紅型の着物が再評価され表に出てくる可能性があります。

そういうものが見いだされれば現代の琉球紅型の発展に決定的な革新となる手掛かりが得られることになる・・・そう考えておられるようです。
全くなるほどと思います。
最高峰の浮世絵の逸品がアメリカなどの美術館、博物館に収蔵されているのと同じことです。
ただ違うのは浮世絵は日本にも多数保存されていますが、琉球紅型の着物は、「醜悪なあの侵略戦」に対する反撃のために、しかも国体存続の代償として焼き尽くされたという事です。
- 2019/09/07(土) 00:00:38|
- 伝統工芸
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