この仕事はあと10数年したら地上から無くなるかもしれません。
無くなりはしないけれど担い手は本当に一人か二人になるんじゃないでしょうか。
この仕事を身につけたこの人さえもがもうすでに10年来コンピューターでこの仕事をしているというような状況ですから。

もはやジャガートを使って手織りをされる職人さんも少ないですし、この人の書いている紋意匠図に従って紋紙にパンチの穴を穿つ職人さんも何人おられるか。

ですから、半世紀後には、ある意味でこの写真は貴重なものとなると思います。
いや、私の撮ってきている多くの写真がそういうものとなる日はそう遠くないと思います。
私が撮ろうという思いと、この方たちが撮っていいよ、あるいは撮ってほしいという思いは、言わず語らずにそういう歴史的な瞬間を迎えているということに対する実感が相互の思いの背景にあるからでしょう。

多分、伝統工芸に関心のある方たちもない方たちも、この現場の人たちが感じている諦めにべったりとまとわりつかれた悲しい笑顔の実感に気付いていないでしょう。
ここに私が書いていることの歴史的意味についても。

それはちょうどグリーンランドの氷山が解けて地肌がむき出しになっているという事実を取材しているカメラマンやディレクターの発している警告が受けている反応と同じかもしれません。
海がプラスチックごみで絞殺されているということを報告している人々の、立ちすくむ気持ちに通じるかもしれません。

もう再生可能という「限界」は越えてしまっているのです。
人々が何やら美しく「日本に京都があってよかった」とか「1000年の都・京都」「観光客ナンバーワン」などと浮かれたことを言っている間に、滅びの言葉をこの人たちは毎日聞いているのです。

紋意匠図を描いて、紋紙にパンチを打ち、ジャガードで手織りをするなどということは、実に非効率です。そして製品はすこぶる高価になります。
パソコンで指示して自動織機を動かせば足りると考えれば、それはそうでしょう。
ですが手作りの西陣織の「世界に誇る」見事さは永遠に失われます。

ネット上を飛び交う「日本万歳」的な言説、そうしたモノをまき散らしている人々の意識の外で「日本的な極限美や巧み」は確実に死滅していくでしょう。
それが安倍氏言うところの「美しい日本を取り戻す」政治の帰結です。

今日の京都盆地は昼過ぎまで我が家の真上で晴れと小雨交じりの曇りがせめぎ合い、押し合っていました。
洗濯物を出せば降り、部屋に入れれば晴れるという「あまり人をからかうもんじゃないよ。」という空でした。
でも夏の空は立ち去りがたくまだ暑さを叫びたいと駄々をこねているようで、私としては歓迎するところです。
でもどうやら前線が停滞して、ここ一週間から10日ばかりはまだまだ大陸の高気圧が前線を南に押しやるまでにはならず、今しばらくはからっとした空気の秋の高い空にはならないようです。
ある素敵な人が力を貸してくれる、その日の決定に迷います。
1923年の9月1日は「関東大震災」がありました。死者行方不明者が10万5000を数える甚大な被害がありました。当時の人口は6千万程度でしたから、今なら21万もの大災害ということになります。
その地震と火災による被害とともに私たち日本人が忘れてはいけない二つの事件がありました。
一つは軍・警察もkジャン良し、一般市民による朝鮮人の大量殺戮です。戦争状態でもない平時において普段は隣人として暮らしていた朝鮮人に対して集団で刺し、殴り、蹴り殺すという実に酷いことが昼日中に繰り広げられました。
そこには朝鮮の人々に対する抜きがたい差別意識と植民地支配者としての優越感がありました。朝鮮人ガイドに独を投げ込んだ、暴行を働いているというデマが乱れ飛び拡散され、それを警察が追認し、助長するという事態でした。犠牲者はおよそ3000とも5000名とも言われている(こうした数字については加害側の日本政府や軍・警が隠蔽し調査に協力的でなかったこと、日本民衆自身が自身の手を血で染めていたことから、今となっては確かな人数を確定することは難しいと言われています。それは先の戦争の証拠を隠ぺいし、調査をサボタージュした我が国政府が海外に与えた(例えば南京市において)被害は特定できないので証拠に乏しく明言できない・・・そこから「そういう事実(人数)があったと証拠を上げていえない以上はなかったということだ」ということを言い張る人々が出てくるのと構造を一にしている。)
私は、阪神淡路大震災の際に、まさかこの関東大震災の時の二の舞を日本人が引き起こす誤りを犯さねばいいがと恐れました。幸い日韓の様々な友好交流の積み重ねの上に理性的に手を取り合うケースが多かったと聞いています。
私たちも成長してきたのです。
そしてもう一つは亀戸事件と甘粕事件です。無政府主義・社会主義、労働運動に対して極度に警戒し、憎悪の念を持っていた時の軍・警察が組織的に大杉栄らをテロにかけ、南葛飾の労働運動指導者たちを無法に虐殺した事件です。
ここで多くを語ることはできませんが、私が強調したいのはこの関東大震災について、そこから引き出し、受け継ぐべき教訓を「防災の日」に歪曲し、この二つの事件を忘却させようという流れがあるという事です。
長年東京都は朝鮮人大量虐殺に対して二度と繰り返すまいという思いを込めて都知事自身が慰霊祭にメッセージを送ってきました。が、現小池知事は昨年に続いて無視を決め込んでいます。
(こういう人と手を組んで政権を夢見た京都選出の衆院議員がいますが彼の不見識は明らかだろうと思います。)
1945年9月2日に米軍艦ミズーリ号の甲板上で停戦協定が結ばれ、連合軍と日本との戦闘が終わり国際的に日本の敗北・降伏が確定したわけです。8月15日の天皇が「玉音放送」でポツダム宣言を受け入れて・・・国体を保持できたので・・・戦闘をやめる、耐えがたきを耐えろといったのは国内向けの話で、だから連合国との戦闘状態が終わったわけではありません。その後も9月2日までは法的には戦闘状態にあったのです。
ある歴史的なことを無かったことにしたり、微妙に重心をずらしてその歴史的意味を変容させる歴史<修正主義>が蔓延してきています。
私は再度歴史を学び直してこの流れに抗することが必要だと感じています。
- 2019/09/04(水) 00:00:34|
- 工芸
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