よく「人に写真を撮らせてくれと言って撮らせてもらうのは(引く受けてもらうのは)難しいでしょ?!」と言われます。
そうです、なるほど難しいことだと思います。
では、なぜそれができるのでしょう。例えば私がこうして写真を撮れているのは私に特別な才があるからでしょうか。
「あなたはちょっと変わっている。」と言われます。その「変わっている」と指摘されるその面に・・・別の人の言葉によれば・・・「人たらしの才」があるのかもしれません。ひょっとしたら。

そういうものがまるでなにもなければ何のかかわりもない「初めましての人間」に写真を撮れるはずもないでしょう。
ですが、そういう事ではない要素というのがとても大きいと私は思っています。

私自身のこれまでを振り返っても精神的にいろいろな局面を経験しました。とても肯定的で積極的な心理状況にあるときもあれば、自尊感情が損なわれて人を恨んだり、信じることができなかったりした時もあります。
周囲の多くの人の厚意を感じて充足しているときもあれば、孤立感に苛まれていた時もあります。

大きく足を踏み出そうという決意と不安を抱いていたり、引きこもってしまいたいと思ったり・・・・。
すべての人がそうした様々な思いを抱いています。
そうした中には自分の背中を押すために普段ならしないようなことをしてみたいと思ったり、自分の誇らしい姿を確認したかったりして「写真を撮ってもらえますか?」という気持ちになることが時として起こるのではないかと思います。

それが百人の人がいたら何人くらいに起こるのかは全く分かりません。
が、私が「撮りたい撮りたい、人を撮りたい・・」という気持ちを言葉にして表に出していれば、どれほどかの確率でそういう方に出会うのではないかと思っているのです。
つまり、写真を撮ってもらう機会があれば撮ってもらおうかな・・という気持ちを抱いている方が確実に、どこかに、どれほどかはおられるという事です。

私は決して、強く、あるいは粘り強く説得はしないのですから、いわば実った木の実が熟して落ちるばかりになっている人と出会った時に撮らせてもらえるという事でしょうか。
問題はその「撮ってみようかな」の背景にある気持ちがどのようなものであるのかということを撮る側の都合で決めつけないことです。そしてできればそれを感じ取ることです。
その気持ちが何であれ受容し肯定的に受け止めるという事が大切なんじゃないかと思います。

だから私の愉しみのためだけに、趣味の実現のための道具としてだけ人を見ていると「初めましての人」の写真を撮るのはとても難しいのかなと、考えています。
見ていただいているようなこうした写真が実現する主な理由、原因はこちらにではなくて向こうにあると、私は最近そんな風に考えているのです。
- 2019/07/03(水) 00:00:57|
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