「今年の応募では高齢化社会や植民地、セクシャルマイノリティーなどに焦点を当てた社会的なテーマを扱ったシリーズが多く見られました。アーティストたちがカメラを被写体に向けることで普段私たちが見落としているもの(日常的なものに潜む政治性、あるいは社会的に不可視化されている存在)を浮かび上がらせます。本フェスティバルが写真や芸術の愛好家のためだけに存在するのではなく、このプログラムによって、アーティストたちから持ち寄られた現代社会の課題や歪みを発見し、〝私たちの”問題として皆で考える機会となることを強く願います。」(京都グラフィエの「KG+」に関する記事の中から)
これは当然、マスコミ、ジャーナリズムの、また他の芸術ジャンルにとっても重要で欠くことのできない視点だろうと思います。

清水寺での写真展のための写真のセレクトは随分難航しているわけですが、どうやら失敗と成功のかなりきわどいところ歩くことになりそうです。
まあ、成功と言っても大したものではなさそうですから、打って出るしかないでしょうねぇ。

ある朝、突然あることに思いついて、やおら起き上がり、さらに考えをめぐらしまして「面白いじゃないか、やってみよう。」ということになりました。
まあ、しかし、あちらを立てればこちらが立たないという隘路はやはりあるもので、そこを突破する難しい工夫が必要になります。

将棋の詰め筋を探すようなものでしょうかね。
詰将棋ならば、何手か先に詰められるという決まりはあるのですから、「必ず詰められるはずだ。」という思考ができますが、対局ではそうはいきません。
「詰められるはずだが、これで本当に詰むのかどうか。見落としはないか、思い違いはないか・・。」果てしなく考えることになります。

定石を打てば、ある程度のとこまでは解があるわけですし、まるっきり採るところもないような大敗もないでしょう。
が、・・・・、です。

考えが堂々巡りを始めると、冷静に判断すれば大したことのないようなことでも実に大層なことのように思いこむことがあります。今度気づいたことも、なんだこれまでも何度かよそで見たことじゃないかと言う事かも知れないし、あまりに初歩的前提を崩した、見かけだけの工夫でしかないのかもしれません。

「下手な考え休むに似たり。」だけで済めばよいのですが。
気持ちのよい青年たちです。
- 2019/05/11(土) 00:00:46|
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