京都グラフィエのサテライト会場の一つに「五条坂登り窯」跡があります。
昨年も会場になっていて複数の写真家の作品が展示されていました。
会場自身が迫力のある施設ですから、これと自身の写真作品をうまく組み合わせるのはなかなか大変だろうと思います。

窯跡なんですが、窯も残り、また焼かれた器などが所狭しと棚や床に積置かれ並んでいます。
土っぽい環境です。暗いですしね。
そんな会場に少し入ったところで、既に反対方向からぐるっと回ってきておられたこの方に遭遇しました。
何たるギャップ。 これがいいなあ!

この方が私に気付かずに、私が道を譲ったような格好になったのです。が、その刹那「すみません。」と。
私が写真を見にくくなったと思われたのでしょうね。
「いや、いいんですよ。どうせ写真ではなくて、あなたを見ていたのですから。」
いや確かにそれは本当の事なんですが、よくこんなことを平然と言えるようになったものだと我ながらこの8年間の修業を思うのでした。

私は父母の影響もあって、幾分かはファッションに関心があります。一方、京都の街中ではこれは自分をよく出しているなあというナイスファッションにお目にかかることが少ないのでなおさら目を奪われたと言うわけです。
後から聞くと、よく人から話しかけられるんだそうです。この帽子の所為で?

私もそのやじうま…他の皆様には失礼・・・の一人だというわけです。(私がそう言っているんですよ。)
東の方からやってきたこの方はファッション関係のお仕事についているんだそうです。
然もありなん。

何故か「横顔だけで…。」ということのようで正面を向いてはいただけません。
私もそう聞いて帽子が目深になった時を捉えて撮ります。
これもまた面白いじゃないですか。
この方も「いつの間にOKしたことになっているのかしらん。」と思われていたかもしれません。
それで改めてお願いの手続きの第一段階から順を追ってお話しています。
手抜きはいけません。

これまで私の「交渉」を受けたことのある方々には、「ああ、今はああいうことを言っているな。」と画面を見ればお分かりだろうと思います。
写真撮影を求められたことはあまりないんだとおっしゃっておられましたが、それはちょっとにわかには信じられませんね。
生まれは甲信越の方ですが、東のにぎやかな街に暫くおられたそうで、会話の返し方のオシャレな感じ、自立している感じは都会的だなあと感じました。

ようやくお顔が見られました。

残酷な国民
文科省は「国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させることが適当」だから国旗掲揚とともに新天皇と新皇太子の即位に祝意を表すよう指導せよという通知を都道府県教育委員会などに出したそうだ。 5月一日は「天皇即位」の日として祝日とされてしまいその前後で10連休などという事態が生じている。
文科相の通知について文科相の言い分についてはここに引用した文言の中にさえ二つ大きな問題がある。
一つは「国民こぞって」という事。二つには「祝意を示す」という事。
まず一つ目。新天皇が即位することについて喜ばしいと思うかどうかは人それぞれだということが前提になっていない。
ご存じのように憲法に平和主義が掲げられ、戦力の放棄が示されていてもそれを尊重する気がまるでない人がいて、政権さえ握っている。憲法尊重を義務とする立場にある人でさえそうだ。
天皇が国家元首ではなくて象徴であることに不満を持つ人もいれば、天皇という地位を存続させることに疑問を持つ人もいる。それが当然のように「こぞって」祝うことを「理解させる」ことは国民の思想信条の自由を侵すことになる。
二つ目。祝意を示せというが、私はこんな恐ろしくもバカなことはできない。こんな残酷なことに賛同できない。
何故か。
ある人が生まれながらに天皇になることに定められていて、そしてついにその時を迎えたことが祝う様な事なのか。
天皇として生きるということを自己の身に引きつけて考えてみたことがあるだろうか。
思想信条の自由、信教の自由はない。(生まれながらにして神道を信じなければならない)、表現の自由、職業選択・居住移転の自由もない。婚姻の自由(配偶者選択の自由)・離婚の自由も実質ない。選挙権・投票権もない。国籍離脱の自由もない。常に衆人環視のもとで生活しなくてはならない。散歩も自由にできないのだ。国民の理想的な夫婦・親子を演じ安心して夫婦げんかもできない。妻は夫より出しゃばってはならない。常に国民に対して慈愛を示さねばならない。オリンピックで他国選手や選手団を応援することもできない。いつも日本に加担しなくてはならない。
こんな人生が人間として幸せだろうか。幸せだと感じる人が一億人に数人くらいはいてもいい。だが天皇家に生まれる男子がそうでなければならないということを国民が強制していいのだろうか。「万世一系の天皇」などというし、「天皇家」が問題とされる。そこにあるのは個人の資質や選択ではなくて「血筋」だ。その血筋が「尊い」から彼らは天皇になるのではなくて、国民がそれを強いるからだ。少なくとも現代ではそうだ。
憲法は国民をその生まれによって差別してはならないとしている。「第十四条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」としている。
だが天皇とその一族は違う。
天皇は天皇であって国民ではないからだ。それ故日本国憲法は普遍的な「人」に対して基本的人権を保障するのではなくて「国民」という排他的に制限されたものに対してのみそれを保障している。それで天皇も排除されるし日本国籍の無い外国人・移民たちも排除されるのだ。
私の感覚で言えば天皇とその家族は国民によって軟禁されているかのようだ。
ある人物とその家族が一億余の人たちの目の前で、旗を振り「敬愛」などの美辞麗句を浴びせられ、美しい衣装をまとわされて、こうした国民に対して保証されている(本来普遍的な「人」として保障されるはずの)基本的人権の大半を奪われる地位につかされるその瞬間を、こぞって祝うなどという残酷なことを子供たちに強いることは、実に非教育的なことだと私は思う。私自身もそんなことに加担をしたくはない。
- 2019/04/27(土) 00:00:53|
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