この日に観光に来ることができた人は幸運でしたね。
風もなく穏やかで明るく温かい天候で、そして桜はまさに勢いのある満開。

気分もウキウキしてきますよね。
観光の外国人を観察していると中国系の人たちと欧米の人たちとは尋ねる場所が微妙に違うような気がします。
趣味と情報の違いでしょうか。その辺の違いが出てくるのはどうしてか興味あるところです。

新元号「令和」は万葉集から引かれたと言いますが、その万葉集の記事自体が中国古典からほとんどそのまま引かれたものですから、私たち日本の文化と中国のそれとは・・・それを歓迎するかどうかは人それぞれですが…分かちがたく、深く深くつながり重なっています。
安倍氏は「日本の古典から」引いたということを言って、何か日本文化の中国に比しても優れていることを強調しようとして無理な説明をしているようです。が、それは文字通り無理というもので、この万葉集を持ち出せば、一層中国文化から学び吸収したんだという事、まだこの時期は中国の古典をほとんどそのまま下敷きにしてさえいたんだということを私たちは率直に認めなくてはなりません。
こんなところに変な偏狭な民族主義を発揮すべきではないのです。

第一「令」「和」を取り出した万葉集の文章の中で「花」と言えば、中国でと同じように「梅」の花の事で「決して「桜」のそれではないことは、政府自身が紹介する文章で明らかです。 桜が注目されるのは平安期だとされています。
そういうことは素直に認めたらいいのであって、そうしないと、いわゆる「国風文化」が盛んになっていた時代にも日本は中国大陸とも韓半島とも豊かに交易、通行をし、文化的にも影響を受け続けていたことを、無理やり無視することになります。
「鎖国(海禁政策)」と言われた江戸期でさえ、中国、朝鮮から文物が移入され、知識人の交流があったのですから。
そう言うことを無理に軽視しようとすると史実を誤ることになりますし、そんな風に偏波に歴史を修正してみても何の意味もありません。
学び吸収し、さらに独自の文化も生み出したことを卑下する必要は全くないのです。

さて、しかし、現代日本のいたるところに桜が植えられ、ことに学校の庭に桜を見ることができるのは、明治政府による国策の結果でもあって、決して然まで伝統的な景観ではないのです。

天皇の終身即位(これは平成天皇によって現に否定されましたね。)、一世一元、女帝の禁止なども決して古代からの伝統ではないのです。
けれど、政府はそういうことを「伝統」「日本らしさ」という曖昧な言葉に包み込んで国民に疑問を抱かせないようにしています。

桜の下でリュートを奏で、それに耳を楽しませる。
こういう豊かさを偏狭なナショナリズムが押しつぶすことにないようにしたいものです。

ヨーロッパの人たちが、ヨーロッパ文化・音楽を理解しないアジア人にリュートが弾けるモノか、などという視線を、私は感じませんでした。
- 2019/04/17(水) 00:00:44|
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