東京や横浜なら場所探しに苦労しないんだろうなあ、無尽蔵と言っていいほどいい場所があるんだろうなあなどを思いながらロケハンをします。
どこかで発想の転換をしないといけないんでしょうが、でもそれもどうかなアと思うし。ちょっと他の街に出張らないといけないかな。

ちょっと私の服を羽織ってもらいました。
いかがでしょうか。

ご本人はお気に入りにはならなかったようで、すぐに脱いでしまいました。

同じようなポーズで撮っていても口の表情、眉の傾きなど、人の醸し出すものは大きく変わってしまいます。
そこが人を撮る楽しみの一つでもありますが。
ワンパターンに見えても、どれも落としたくない写真になってしまうのはこの人の魅力ですね。
今まであまり狙ってこなかったラインに注目しています。
無論、それを理解してポージングしてくれています。

その場所の持っている可能性もできるだけ探す努力をします。
「暗いと嘆くより自分から進んで灯を点しなさい」かな。

この樽がいいなあ。

下賀茂神社で絵馬の記事面にシールを貼って記載内容が他人に見れらないようにするなんてことをしているようです。それで「シールを貼ったら神様が読めなくなるので願い事を聞いてもらえなくなるのでは・・。」なんて言う声もあるそうで・・・。
下賀茂神社の関係者によれば「真心を込めることが大事です。」とのことらしい。
シールを張ったくらいで願いの内容を察知できない程度の力しかない神様が尋常では起こらない幸せ、願いの実現ができるんでしょうかね。大学受験でも人事を尽くしたところが不合格となるはずのところを合格させるから神の力に意味があるし、本来なら不作になるはずの気象なのに豊作を実現するから神頼みの意味がある。それが合格当然の成績の生徒が合格し、そうでない子が落ちた。異常に寒い夏なので稲の生育が落ちて収量が減った、順調な降雨と適当な時期の十分な晴天で豊作となったというのでは神の出番があったとはいえない。
それが逆であったと言うのなら「おお!神よ!あなたこそ偉大だ!」と叫んでもいいでしょう。
真心を込めた人の願いが実現して、そうでない人の願いは実現しなかったというのも神の心は広大無辺とはいえなさそうだ。無心信な人は救わないというのではこころが狭くないか。人には人を差別するなというではないですか。
祈るとも、祈らずとも神様はあなたを見ていて、あなたの悩みや願いをご存じでお救いになる。それが神の道理であってほしいものです。
鈴を鳴らしたり拍手をしないと気付いてくれない神でも困る。神社に行かないと願いが届かないのは「電波が届かない範囲が広い」あまり優秀じゃない携帯電話会社のようなものだ。
神社から離れたら「電波が弱くなる」のでは困るじゃないですか。まして天神さんのように全国各地に中継局を配しているような神社では。
阪神・淡路の震災や東北の津波や地震の被害をあらかじめ知れせてもくれない、防いでもくれない神々を信じて何かしてもらえると思う気持ちが私にはわからない。
私一個、我が家の幸福を実現してくれさえすれば、世界の戦災や自然災害には無力な神でも信じようとする人々の意識が気になる。
神様がどういうものであるかと考えるその内容はつまりはその人の意識内容の鏡だろうと私は思っている。
まあ、シールを突き抜けることができない程度の神「通」力なら頼むに足らないというべきでしょうね。
- 2019/01/31(木) 00:00:05|
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