今頃になって、「新年明けましておめでとうございます。」なんてちょっとタイミングが・・・。
旧正月には早すぎますしね。
いえ、この方とお会いしたのが3日の事で、今年初めてでしたのでこのようにご挨拶したというわけです。

銅心さんも私を認めて大きな声で「おめでとう!」と言ってくれました。
2日からこうして仕事に出ているんだそうです。 今日は厳寒というほどではないにしても、さすがに地面にお尻を据えていては冷たかろうと思いますし、雲が太陽を隠せばぐっと冷えます。
そんな日にもここに出ておられて安心しました。

あちこちの神社には初もうでの参拝者が溢れんばかりです。
家内安全やら無病息災やら学業成就やら・・・・おみくじを引いては恋愛運や仕事運を見ています。大概自身一個か家族・恋人の事しか関心がありません。日本の神様もなめられたものです。
銅心さんの一日は「京都に来てから深いかかわりをもたせてもらって、今はあっちに行ってしまった人たちの墓参りをしたよ。」と言うことでした。

あちこちに散在するお墓を参るのですからなかなかの手間です。
でも、「毎年そうすることに決めているんだよ。」
自分が今日あることを助けてくれた人たちにお礼を言い、思い出を手繰る、そんな一年の初めです。
その思いの在り方を考えると、私の年賀状はなんと陳腐で貧相でしょうか。
高齢の紳士が「その材料は何かね。銅線かな。」と声をかけられました。
その時の銅心さんのまなざしは案外厳しいのです。

生きてるということを形成している一つ一つのことに対して「おれはこう思うのだ」ということで筋が通っています。
しきたりに任せて当然にも疑ってよいはずの事も疑わないで惰性に流れる生き方とは少々違います。
意見が一致するからとかどうかということでなくて、生きている毎日のひだを曖昧にしたり等閑視しないという姿勢に触れることで私はドキッとさせられます。

最近は通行人がすぐ脇を通って話の内容が聞き取れるくらいなのに声を潜めないで人生の裏も表も話されます。
私のような小心の人間はどぎまぎするのですが、銅心さんは委細構いません。
無論、銅心さんとして話す相手を選んでの事なのでしょうが。
つまり私には「おまえのそのつまらない表向きの建前を早く突き破れ!」というのでしょう。

私は今年もまたこの人の人生の機微を伺いに来るのです。
- 2019/01/09(水) 00:00:07|
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