私がよくお訪ねするギャラリーに「高瀬川四季AIR」というのがあります。
高瀬川仏光寺のすぐ近くです。
そのギャラリーのオーナさんと旧知の方で、関西大学で教鞭をとっておられた池田進さんです。

昨年は今日の街中の家々の軒などに飾られている「鍾馗」さんの像を探索し記録されて、そのバリエーションや由来などを調べられていました。今日の街の中心部のごく狭い地域に400を超す鍾馗さんを発見されました。
それを一冊の冊子にまとめるとともに、この四季AIRで街を歩いて撮りためた写真を展示されていました。

それが今年は「銭湯の像が噪ぐ」と題して、今日の神社仏閣などの建築物に飾られている「象」を求めて歩き回っておいででした。
そしてやはりそれを写真に記録し、冊子にまとめられました。

そうした像は文献から得た情報による想像上の怪獣として彫られたものが、やがて実物の像が日本に渡来して、その実物を見分したり、その記録から得たイメージで次第にリアルな像が造形されるようになります。・・・といえば、事は案外簡単なのですが、なかなかそうばかりも言えないようで、そこはやはり様々な要因が絡んで形像されているようです。

池田氏の調べによれば実物の像が日本に始めてきたのは室町期の応永15年(1408年)とのことで中国戦に積まれて若さに来たという記録があるそうです。
その後、足利義持が一旦入手したり、徳川家康も虎、孔雀とともに像を手に入れているようです。
そして広く民衆レベルでも目に触れたのが、徳川吉宗の時です。彼が発注して雌雄2頭が舶来しましたが、メス像は早くも3か月で死んでしまい、その後推す像は遠路はるばる江戸までの旅を死、吉宗も見物しています。京都では天皇にも拝謁しているのですが、貴族も5位以上でないと天皇の前に出られませんので、像にも位階が与えられたようです。「従四位」だったそうです。

さて、像の彫り物は神社のもんにも寺院の建物にも見られます。町中に散在する地蔵尊を祭る小さな祠にも見ることができます。
そこには明治期以前の神仏習合、さらにそれ以上に土俗的宗教(≒天の神地の神)も道教的なものも混交した宗教的意識の反映があると指摘されていました。
明治初頭の「神仏判然令」(神仏分離令)が、日本の宗教的な文化に大きな亀裂と打撃を与えた様子もうかがえます。

このギャラリーの良いところは、こうした文化的なサロンとして多くの人の学びや交流に貢献しているという事でしょうか。
昭和7年のお生まれです。
なんとエネルギッシュなことでしょうか。
私など、文字通りの小僧っこです。
- 2018/12/26(水) 00:00:36|
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