京都の長岡京市。ここの市会議員の補欠選挙があります。2019年1月に投票があります。
その補欠選挙に20年来の若い友人が立候補します。
今の日本の政治状況はもうほとんど砂漠と言っても良いような、あるいは腐り果てたゴミ箱の様なといった方がふさわしいかな。
選挙に出るということをある種の自己投機のように見なしている人たちがいます。例えば維新の候補者・議員のように。
そういう中で清新な風を吹かせてくれると期待できる人が立候補してくれたなあと思います。
議員になるということはそれはそれは大変なことです。ことにこの党からの立候補は。
政務費を事実上横領しようが、公選法に違反しようが、どれほど破廉恥なことをしようが「今後職務を全うすることでご批判にこたえていきたい。」などと一切責任をとらないで居座って破廉恥に生きて行けるような人ならともかく、こういう誠実な人に議員が務まるのだろうかと思います。
石橋湛山氏が言うように地方自治は市町村でこそ発揮されなくてはならないと思います。けれど日本の現状ではおよそ自治の名にふさわしい自治体は拡大鏡を持ってさがさねばならないのではないでしょうか。
ここ長岡京市でもJR長岡京駅の東口の様子を見ればこの市の政治の基本姿勢がよく分かります。これを異様とも異変とも意識できないような住民が多い街でこの人を当選させることができるのでしょうか。

定数は一で、民主党系からは立候補が今のところない様です。
そうなったときに民主党系議員やその支持者たちはどう行動するのでしょう。
そこに政治的民度と言ってよいようなものが現れてくると思います。

長岡京市には美味しい地下水脈があります。
これを近くのビール工場のために安価に大量に供給して、一方では市民には川からくみ上げて浄水した費用の高い美味しさの劣る水を供給するような政治をしてきています。
中央政府・国会が水道事業を民間に投げ売りするような愚かな法を作ってしまいましたね。市民の暮らしの基本的な安全保障を外国企業を含めた私的企業に投げ売りする姿勢を明確にしたと言えるように思います。
京都府が広域水道事業として各自治体の自主的経営を取り上げかねないのですが、そうなるとこの美味しい水はますます長岡京市民から遠いものとなると思います。企業に優先的に供給されることは目に見えています。
その時長岡京市として主体的自主的に住民本位の判断ができるでしょうか。
その時この人が議会にいたら市民の利益を代表して活躍するだろうと思うのですが、果たして今の市民はそういう判断ができるでしょうか。注目したいところです。
自由化、民営化=安価な供給、サービス向上などという「お話」を信じ込まされている日本国民の大方と同じ轍を踏みはしないだろうかと危ぶまれます。
国鉄民営化で北海道の鉄道がどうなったか、このひとつをとっても民営化の行きつく先は明瞭なのに。

まだ候補者になったばかり。「生硬」が服を着て立っているようなところがあります。誰でも同じようなことになるだろうからそれは責められないでしょう。 でも演説はよく準備されていました。
私の父がかつて県議選に出たことがあります。その時に元来生真面目一本の人だったし、柔らかい社交性を持つような人ではなくて誠実、無私を絵にしたような人だったから、大向こうをうならせるような演説は到底出来ませんでした。

まだ学生で「学生運動」の隅っこにいた私の方が「息子の方が演説がうまい。」と言われるほどのものだったのです。
元来、保守の牙城であるその地域で父が当選することなど誰も考えなかったし、運動員のほとんどは近くの他の大きな市に応援に行ってしまっていました。ですから、父自らが宣伝カーを運転し、応援弁士もなく、ただ一人で街頭演説をするという様な選挙運動でした。応援弁士は息子の私一人とかいうこともありました。(その息子の応援について相手陣営は「京都から全学連が応援を送ってきた。」などというデマを飛ばしていたのです。当時、ゼンガクレンなどと言えばヘルメットにゲバ棒というイメージが広がっていましたから、田舎の政治風土では効果抜群だったろうと思います。)
ですが、その真面目生一本の父は、長年の日々の地道な地域の人々の生活を守る活動によって受けた支持もあって、これまでの実績を倍する票を獲得したのです。
相手の保守候補は初めポスターさえ作らないという「楽勝ムード」から一転、大慌ての選挙対策、票獲得に走りました。
結局はダブルスコア以上の大差で負けはしましたが、大方の人々を驚かす善戦健闘だったのです。
おそらくはこの人も同じような旋風をまきおこすのではないかと想像するのです。
- 2018/12/20(木) 00:00:02|
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