「日本に京都があって良かった。」
一面では、私も本当にそう思います。 が、今やそんな呑気なことを言っている場合ではないのです。
ここではその京都自身が蛸が自身の足を食うように食い散らかしてぼろぼろになりかかっているというような問題は置きましょう。
もはや京都は風前の灯火なのです。少なくとも伝統工芸の大半の分野でそう言えるのじゃないでしょうか。

こういう仕事もインクジェットプリンター、三次元プリンターで済ますことのできる時代です。
そういう機器を使えば、過去の意匠であろうと、その色違いバージョンであろうと、何でもできます。なまじ手作業では線に細い太いが微妙にできてしまうのを同じ幅でどこまでも揺らぐことなく引けます。さらにまたお望みなら適度に揺らぐようにも引けるでしょう。
金線の盛り上げだって三次元でできます。

それで、コストだって引き下げることができるでしょう。
ただ、でも肝心の需要がそれで増えるかどうか、難しいところですが。

私は全別の視角から、人間というものがどれだけ素晴らしい可能性を持っているのか、それを見ることができなくなることを憂います。
もやは実用ではなくて工芸、芸術としてしか残る道はないのでしょうか。
ただ、こういうものは元来実用のものであったから高度化してきたので、それがただ単なる鑑賞用になれば果たしてその到達は維持もできないのではないかとも思います・・・。

伝統工芸存続は大きな、複雑な問題です。

京都に観光客が毎年1000万人以上来ていることを喜んでいますが、果たしてそれをいつまで続けることができるのか。
職人のいない伝統工芸は存続しうるのか。
職人がいなければ、それはそれで代替する機械ですればいい。これまでの職人の仕事を解析してAI技術で再現し、あるいは新なものを作っていけばいいのだとも。何事もそういうものだと割り切る声もありますが。

日本は豊かになってきているのでしょうか。
- 2018/10/22(月) 00:00:30|
- 伝統工芸
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