音楽を流して、その曲逃れを感じ、そして曲の終わりと書く終わりをシンクロさせるというパフォーマンスを見せてくれました。

私自身はこういうことが書にとって本質的に良いことかどうか判断できません。
曲想と書く内容とがすでにマッチしていて、その曲のイメージを受け止めて書くということは、あるいはあり得ると思います。
歌詞と楽曲がマッチして「声楽曲」ができる。その時歌詞の音韻やフレーズは音の高低やリズムや強弱や音色とマッチすることは是非必要だろうと思います。
が、それを書と同調させるとどうなんでしょうね。

でもそういう切り口で、「書く」を高めていこうという挑戦はあってもいいのかなと思います。
そういうことを試してもいない旧来の枠組みで初めから排除しては、多くの人とつながる表現に革新していく道をあらかじめ閉じてしまうことになりかねません。

写真でもデジタルになって様々な加工をするものが増えてきました。
先日訪ねた写真展でも少なくない作品が、「撮って出し」ではありませんでした。
私自身はどちらかと言えば否定的です。それをすることでよい作品になっていると感じられるものはそう多くはなかったと思います。
それは私の評価ですから、だから「そもそもだめだ」などとは決めつけないで、大いにやってみたらいいし、そういうことについての議論は大いにされたらいいと思います。

話は変わりますが、ちょうどこのギャラリーのスタッフさんも記録のための写真撮影をされていました。
その人とはときどきお話をさせてもらって顔なじみになっていますので、私が初めから床に這いつくばり、初夏に迫って撮っても、とがめられないだろうという安心感があるのです。そうでなければ、こうも図々しく撮影はしにくいです。

7年半写真を撮ってきて「この人は写真を撮る人だ」と知ってくれる人が、多少ともできてきたおかげです。

そういう風にしてtもられリることはとても大事な要素になります。
どこにいても私がカメラを持っていてこれはという人を見つけると撮りたがるということを周囲の人が認知していてくれると、初めてお会いした人に「撮らせてもらえませんか。」とお願いした時に、周囲にいる人の反応を見て、あまり怪しまれずに済むというわけです。
第3次5カ年計画のためには、こういうことも大切だなあと感じている今日この頃です。

- 2018/09/24(月) 00:00:07|
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