このところよく書家の個展を目にすることがあります。
ことに男性、それも若い方の個展にはある傾向を見ます。
それは見せ方・演出の工夫、旧来の書とは違うぞアピールです。

この方の個展にもそれが感じられました。
私は写真展の「見せ方」の工夫の無さについていささか忸怩たる思いがありますので、そこに一層関心を持ちます。

そこにはプロとアマの意識の違いという面もあって、一概に言えないようにも思うのですが、キャプションを含めての見せ方が、写真の個展・グループ展とも、あまりに芸がないなあと常々感じているのです。
グループ展などでのキャプションの凡庸なことは目を覆いたくなるほどです。
「凛として」「静寂」などどこの会場でも必ず一つや二つはお目にかかる単語です。
「夕暮れ」だとか「祭りの男たち」など、見ればわかる・・・と突っ込みたくなります。
それだけ、そこに何を見たのか、何を主張したいのか、掘り下げたものがないことが一目瞭然です。

内容的なことについては、書の展示についても同様に感じることが少なくありません。 書は文字、言葉、文章を書きますから、そこに「意味」とは切り離すことのできない特殊性があります。 その内容が惰性的で凡庸なことが少なくないし、また一方で「今ウケ(インスタ映えと同じかな)」を狙う下心ふんぷんのものなどが散見されます。
が、「見てもらいたい」「関心を持てもらいたい」「私の工夫を伝えたい」という情熱は強く感じます。

写真の世界でも若手にはそういう気配が、やはり見られます。
それぞれの時代の若者の共通性とだけとは言えない、今の若者の持つある種の空気を感じます。

私自身は、それを単純に肯定できない気分を抱えるのですが、しかし、こういう格闘や、模索を通じてしか次の世界は切り開けないだろうなあと思ってもいるので、敬意を払いつつ注視する姿勢です。

私が「描くところ撮らせてもらいたい。」とお願いすると、既に今日の練習は終えたところで、ライブ本番は明日以降という予定であったにもかかわらず、「いいですよ。ぜひ撮ってください。」と、改めて紙を広げ、筆をとってくれました。
私は、すぐに床に腹ばいになって撮り始めました。

運筆のどこでシャッターを切るか、その瞬間を見つけることに神経を集中しました。
- 2018/09/23(日) 00:00:15|
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