今、Mr.Karsten Vogel からいただいた「THIS IS IT」というアルバムを聞きながらこれを書いています。
CDには鳥居の・・・たぶん平安神宮のではないかなあ・・・写真があります。
そして「Kyoto」という曲も入っています。
ジャケットの表紙の写真はモノクロの氏の写真です。サックスが青く輝いています。
Flemming Hjøllund 氏がその写真を撮られたようです。 知的でクールな写真です。必要以上に情感を煽るものではないところがとてもいい感じです。
今度は私の写真を使ってもらおうかな(笑い)

この撮影の時のレンズのセレクトにはとても迷い、何度も獏に入れたり出したりしました。
で、結局75-300の一本しか使っていません。 F4.5-5.6ですから「暗い」です。(F2.8通しの80-20にしようかと迷いましたが、席の配置が前とは違っていたので、結果オーライでした。)
ライブ会場ではストロボは使えませんし、スポットライトがついているわけではありません。
そしてお客さんの前に入り込んで間近で撮るということもできません。
カメラのISOを高くできるということがなければブレブレの写真になってしまいます。

来年の個展を意識して広角でも撮りたかったのですが、それは会場の条件が許しませんでした。
でも、漠然と前と同じ写真を撮る訳にも行きません。
来年の舞台は少々大きいので、テーマをよく咀嚼して「私はこういう写真にしてみました。」と言えるものにしたいなあと・・・・・一応は・・・・考えています。

10か月かけて探求してみたいと思います。
第3次5カ年計画に向けても、そういう苦労をしないといけません。
それでないとリタイア後を写真を楽しんで生活することにした意味がありませんしね。

それにしても不思議な感じですね。
デンマーク人のサックス・プレーヤーの写真を私がこうして撮っているなんて。
私は今日については「撮っていいですか?」と許しを得てないんです。

彼が、こういうチャンスをくれたということを想うと、ファインダーをのぞくのに一層熱が入りますし、いろいろなことを頭の中でお校則で思いめぐらせます。
とにかく私のように照明器具を持ち込んだりしないで写真を撮る者はそこにあるもので勝負せざるを得ないのですから、ここには私の狙いを実現するのにふさわしい何があるんだろうと、時に回り込んでどの高さから撮ればいいんだろうと考えながら周囲に迷惑をかけないで動くこと、入り込むにはどうすればよいかを判断します。

写真撮影に必要な要素の一つはフットワークですね。そして状況観察。

そして目の前にある問題の中から解を見つけるという楽しさがあります。
そしてその解は被写体に対するリスペクトと感動・共感に裏付けられていることが大切なんだと・・・・ちょっと気づき始めているわけなんです。
更に結局は「美」に行きつかねばならない。
う~ん、大分風呂敷を広げ過ぎたなあ。
清水幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」だとか「美は乱調にあり」(大杉栄)などという挑発的な言葉をギャラリーの責任者の石田氏から投げつけられたたためにいくらか熱が出たんでしょうね。
自分でも頭がぐらぐらしてきました。
それにしてもこういう音楽家の熱に感応して撮れるなんて幸せなことです。

世界の資本主義秩序は「自由と民主主義」に加えて「福祉社会」を提示することで、「資本主義の全般的危機」を実体的に克服してきましたが、もはやその「福祉社会」は勿論の事、「自由と民主主義」さえ自身の衣として「必然だ」と言えない状況を生んでいます。1930年代から40年代に世界に台頭した東西の全体主義は世界大戦に帰結して、世界再編につながりました。その再編して生まれた世界秩序がもはや今日の世界的な諸問題を内に収めることができなくなり、世界的に綻んでいます。これを再び全体主義の方向で「ガラガラポン」しようということになれば、先の大戦の被害をそれに比べれば「微々たるものだった」というような事態になりかねません。
- 2018/09/11(火) 00:00:33|
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