逃げ水。
子供の頃はほとんどが土の露地でしたから、夏の暑さは乾いた白っぽい土の色のイメージでした。
汗の滴が落ちたり水を撒いたりするとそこだけが鮮やかな黒色になって、それが何やら涼しげでした。

路面は大概、水たまりの窪みが残っていて凹凸がありましたから平ということはなくて逃げ水というものの印象がありません。
ただ道路の表面は・・・・蒼空に白く鮮やかにきらめく積乱雲を見せているのとは対照的に・・・・ゆらゆらとして曖昧な世界でした。
子供の目線は低いですから、余計にそれを感じたかもしれません。

広がる水田の中を通る土道にはほとんど自動車も通りませんから、かがみこんで、草に隠れた虫たちを見ていようとも道路の干からびて死んでいるミミズをつついて遊ぼうとも、川を泳いで渡ろうとするに青大将を追いかけようとも、車に引かれるような憂いはありません。
ですから誰からも「危ないよ」という声に邪魔されずに夢中で遊べたのです。

「あぶないよ」「気を付けなさい。」「やめなさい」と何時でも親の声のかかる 遊びしかできない子の遊び環境を作ってしまった我々の罪は大きい。
資本主義的企業は子供たちも「購買力」としてしか評価しないし、収奪の対象としてしか見ることができないから、早晩自分自身の成り立ちの土台を衰弱させてしまうだろう。 その資本主義的企業の欲望を人格化すると安倍君たちや経団連のお歴々、堀江くんや竹中君の様になる。
ところで、個々の桜並木も来年の春には元の様に回復するでしょうか。
もう2,3年はかかるのかな。

自然とのめぐりあわせも一期一会ですね。

ですから「写真」には価値があるとも言えます。

- 2018/08/18(土) 00:00:15|
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