樹木が生い茂っていますので暗い場所もあるのですが、そこに夏の強い光に差し込んでいてほしかったですね。
それで滝や水面の波がもう少しキラキラしてほしかったし、水も深く透ってほしかったですね。

でもときどき雲が動いて切れ間から強い日が射すのです。そうすると一度にシャッタースピードを5、6段上げねばなりません。
と、それに追いつこうとするとまたたちまち太陽は雲に隠れて、しかもその雲が暑かったり薄かったりと目まぐるしく変わるのです。
絞り優先オートで設定しておけばとにかくの対応はできるのでしょうが、それをしないので焦りに焦ります。

もう頭から顔から汗がびっしょりです。
汗が目に入り、ファインダーは曇ります。 マニュアルフォーカスですからどうにもなりません。
今日はなぜこんなに汗をかくんだろう。「気に会って写真を撮るのが久しぶりなんで上がっちゃて・・・・・。」と。
カメラを二台首から下げて岩場に足をかけて流れに落ちないようにファインダーをのぞきますから汗で目がふさがれるとなおさら厄介です。

写真では涼しげに見えるでしょうし、事実京都の町中に比べればはるかに涼しくて過ごしやすいのですが、今日はここしばらくなかった湿度の高さがありました。
それが計算に入っていなかったのです。
額にタオルを巻くべきでした。

周囲に家族ずれが遊んでいたりすると、ご迷惑でもありますから、「移動しようか。」と上流に進んでいきます。
ほんのしばらくとるとまた新手のご家族が小さな子とともに現れます。
カメラの視界にはいるのを遠慮して遊びにくくなるのは申し訳ないので、そこそことっては「移動」です。

ある場所で撮っていますと彼女が笑い始めて私の背後を指さすのです。
そこは滝を眺める東屋風の見晴らし台があるのですが、振り返ると見晴らし台にはご高齢の男女ハイカーたちが鈴なりになってこちらを見ているのです。
どうもバスで来られた方々のようです。
私たちは「滝を見る」その景観の中で撮っているので、大変迷惑をおかけしていたのです。

私は初めてフォトマヌカンをしていただく人に「フォトとマヌカン心得」を話すのです。
「お願い」ですね。
わたしはついさつえいに夢中になると、どんどん下がって壁にドンしてしまったり、止まっている自動車にぶつかったりしてしまいます。
そこで側溝に足を踏み外したり自動車事故にならないように私の背後に気を付けてください・・などとお願いするのです。
この人は頭のいい人ですから、迷惑が掛かってちないかどうかもちゃんと見てくれているのです。
頭のいい人は好きです。

今日の京都盆地は順調に?晴れ。でも、もういい加減に雨が欲しい。ところどころピンポイント的に雨が降っているらしいけれど、この辺りはあまりに少ない。列島を取り巻く気象状態は、まるで最近話題の「切れやすい高齢男性」のような気象になっていて、突発的に猛然と降ったり、意固地になって降らなかったり・・・・。穏やかに人にやさしい心持になれんのかね。天君。
昨夜、旧友からいつもの電話があり一しきり話した。なんでも長野方面に旅行して満蒙開拓団についての記念館を訪れいろいろ話を聞いてきたとのことだった。
長野は農業恐慌以来貧苦にあえぐ村が多かったせいもあり村ごと満洲に開拓団として移住した人々が少なくなかった。それで記念館も設けられているようだ。
私は静岡県の生まれだが、父は満蒙開拓団を志願して渡満している。
現地で招集されて、敗戦を迎え、国家政策の過ちで侵略の片棒を担がされた挙句にシベリアに抑留された。
シベリア抑留については、ひどい目に遭った、ソ連はひどい奴だという言い方がされるが・・・それはまたく事実ではあるが・・・その根本的な原因は大日本帝国の侵略戦争政策にあり、さらに為政者たちが先途の賠償逃れや連合国に対する追従で天皇と自分たちの罪を免れようとして・・・沖縄同様に・・・「棄民」されたところに問題の本質があることを忘れている。戦後間もなくの日本政府は・・占領下で主権を失っていたとはいえ・・シベリアの捕虜の人権を守ることも、解放、帰国への働き掛けも不熱心であったばかりか、戦争賠償の肩代わりに捕虜の奴隷的労働を自ら提供するという反国民的やり方をしていたことを忘れてはならない。
開拓団に参加した人は当時を懐かしがり、敗戦で失った財産や命を数え続けている。そして敗戦とともに逃亡の憂き目にあい「中国人が遅いかかってきて、命からがら逃げた。」「多くの財貨を中国人に獲られた。」などと述懐するが、そもそも彼らは未開拓の荒野・原野を開拓したのではなくて中国の人々が交錯していた土地に、関東軍の武力を背景に入植していった≒つまりは土地を奪った(時には形ばかりの金銭的な売買の形をとることもあったが)のが真相だ。
配線は避けられない情勢だということになると財満の軍上層部とそれと癒着・結託した富裕層はいち早く荷物をまとめ、時には軍の金品・資材を着服して、開拓農民には情報を知らせずに、自分たちの逃げた後の「後方」を守らせるために貧弱な武器を持たせて「皇国本土防衛」に当たらせたのだ。
沖縄でも同様だが日本帝国軍は民を守りはしない。
それは結局のところ自衛隊でも同じ事だ。
そのために圧倒的に機械化されたソ連軍が進軍してくると、ほとんど抗戦するいとまなく蹂躙された。
現地の軍上層部と富裕層の逃亡をカモフラージュするために残された一部将兵と農民軍は、なすすべなく打ちのめされ多数が死傷し、また捕虜となった。
取り残された女子・子供たちの筆舌に尽くしがたい苦難は様々な人が語っているし、書かれたものもある。
私の母親もまた満洲にある「女塾」に入り、言い交していた父を追ったわけだが、敗戦とともに日本への逃避行を経験してきた。
開拓団にしろ、旧帝国軍にしろ、その多くは自分に都合の良い記憶は明確でよく話されるが、本当につらかった黒い陰惨な経験は自ら隠したし、政府も圧力をかけてしゃべらせなかった。シベリア抑留者には「ソ連に行った≒アカ」というレッテルを張って「社会主義の宣伝」を防止するためより抑留の実態を一般国民に知られるのを恐れて口封じをしてきた。
被爆者の口を「放射能による病気がうつる。」などのデマで差別して封じたように、シベリア抑留の真相は「アカ」のレッテルで封じをしてきた。その一方で政府に都合の良い情報が意図的に流されてきている。
それが戦争責任を負うべき政治勢力の跡継ぎ≒自民党(現自公政権)のやってきたことだ。
シベリア抑留にしても満蒙開拓団にしてもことの本質的真相の多くは闇の中に隠されてきて、その真相が隠されたまま、ソ連にひどい目に遭った、中国人が襲ったなどという面だけが声高に言われ続けている。
こうした悲惨極まりない日本国民の体験の真の責任者は頬かむりをしたままだということ忘れないようにしたい。
- 2018/08/14(火) 00:00:31|
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