写真を撮るときに思うことの一つに捕り手である自分はどの画面に入ってていいのかどうかということがあります。
つまり、よく言われるように「自然な感じで撮る」のがいいかどうかと言うことです。

よく自然な笑顔・表情がいいねとか、カメラを意識させないで撮れているからいいねと言われたりします。
わたしは、あまりこういう考え方を支持しないのです。「自然がいい」というのは日本人好みかな、意識性を排除する傾向です。
意識性がない芸術というのを私は肯定的に評価しません。意識性を客観的に意識して、そのうえで無意識な偶然を撮りこんだり、生かしたりするのと、初めからただ意識しないで書いたり撮ったりするのは、違うと思うのですよね。

「無意識で」というものも様々な位相や分野があります。それを果たして意識して「無意識・自然」をとらえているのだろうかという疑問もあります。
まあそういう難しい問題は置いておくとして、この画面に私の存在を感じさせる空気を作っていいかという事なんですね。

じゃあ逆に私の存在を感じさせる写真はどうすればできるのか、どういう絵になったらそれが感じられるのか・・・・実はそういう事も私には分かってはいないのです。
ですから私を消した写真などできようはずもなく、またその逆もできないという事になります。
まあ、ちょっと禅問答みたいですが、私の意識の底流にいつもある問題意識ですね。

今日はオートフォーカスにすると後ピンになる85ミリ単焦点で出かけています。
このレンズではピント合わせを、当然ながらマニュアルでするわけですが、光に対してより意識的なります。
AFも便利な時はありますし、頼るときもあります。ですがやはりMFで気張って光と影を見ることが必要なことを思わされます。

「瞳○○」などという精度の高い便利な仕組みも世にありますが、そこにも落とし穴があるように思います。
人物写真は目に焦点を合わせるのがαでありオωである・・・・としても、αからωに行く間には実に多くのバリエーションがあるということを忘れ勝ちです。
この方の弾く曲を聞いていても、αからωに短絡しない「私」がいるなあと・・・・そう思いました。
- 2018/06/16(土) 00:00:17|
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