この頃都にはやるもの。
ホテル建設、インバウンド目当ての商い…インスタ映え撮影・・・・

なんとわざわざ岡山から「インスタ映え写真を撮りに来た。」のだそうです。
「だって岡山にインスタ映えするところがない。」といいます。
それでいろいろ調べて上洛。

「映える!」 を「ばえる」というんですね。
いったん「インスタ映え」となっているので、戻ってきたら「映える(はえる)」ではなくて「ばえる」になってしまった。
若い人には「この服にはこのスカーフが『映える』ね」なんて言うように「映える(はえる)」を使うことはなくなっているのでしょうか。
「ばえる」という動詞が生まれているようです。

「インスタ映え写真」では「顔を写さない」のだそうです。「だって顔があるとそっちに目がいってしまう。」からだそうです。
なるほど・・・です。
「それに・・・・恥ずかしい。」

たくさんの、それも「女子」たちが「インスタ映え」写真を求めて京都にも来ていますが、かなり意識して写真を撮っているようです。そこに自分たちが写り込むのですが「顔は出さない」ことで、自分なり友人が画面の重要な構成部分となりながら、・・・・しかもそれは「映える」状景を写した写真の中でです、・・・顔出しはしないというのは、「インスタ映え写真がこれほど広がる上で案外重要なポイントなのかもしれません。
多くの人に認められる写真、印象的で嫌いな状景の中に自分がいるという事はとても楽しいし、自己肯定感につながると思います。自己承認欲求もある零度満たします。それで「顔出しがない」という事でハードルは低い、抵抗感がない。

敢えてむき出しの言い方を…誤解を恐れずに・・・・するときれい、かわいい、魅力的な女子に独占されていた世界が大きく広がった・・・のかもしれません。
いいことだなあと思います。
でもこの子たちは、自分で言っているような「写真に写れない」ような容姿では全然ないんですけどね。
わざと顔の写らないポーズをとってもらって撮ってみました。

日本の政治はもはや開発独裁レベルの前近代的近代になってしまった。もはや法治国家とは言い難い。そもそも近代政党と言えるものも例外的にしか存在していないし、少なくとも政治文化についていえば先進国などとはとても言えなくなってしまった。自公政治の退廃はあまりにも深刻だ。そうであればこそ市民が市民となる努力をしていくほかに道はないのだろう。道は遥かに遠い。高校時代の友人が戦後間もなくの民主的人士の発言を取り上げて、「日本はまずもって共和制にならねば。」と言っていたが、制度としての共和制を希求し支えうる共和制的精神を持った市民が存在しなければ話にならない。これから一世代や二世代かかっても、そうした人々が過半になることは望めまい。自由民権の叫びからどれだけの時が、どれだけの自覚的な人々の切歯扼腕があったろうか。しかし、その切歯扼腕して岩を穿つ槌を振り上げねば明日は昨日より暗くなるほかない。希望の一つは現憲法だ。国民の身に余る憲法だがこれは悲惨な歴史が生んだ僥倖として私たちの手にある。ここを先途として安倍改憲を阻止せねばならない。
- 2018/05/25(金) 00:00:30|
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