子の成長を願う一方で、だからこそ平和でありたい、戦争は嫌だという人々の当然の願いがあるにもかかわらずそういう事を敢えて等閑視している音楽状況を打ち破って、当たり前に人間的な生活の歌を取り戻すためには勢い政治的にならざるを得ないと思います。

それがまっとうな当たり前に人間の生活意識です。人なればこそ、親なればこそ・・・・想いあふれるのは何も男女の愛や恋や一人寂しいという個人的情緒世界だけに尽きるものではありません。
彼女の歌が、街を流れている歌と比べて語彙が違うのは、それだけ正直に現実のわが身と我が生活を見ているからだと思います。

わたしはこういう、人としての根から生まれた「沖縄・平和を歌う」歌が鉢巻きやこぶしを振り上げてだけ歌われるようなものではないことを率直に思います。
事実、彼女の歌には単なる言葉の操作、修辞としてではない深いリリシズムがあります。
ステージの上で媚態を見せたり、演出を凝らしてポーズをとって何か深い意味を含んでいるかのように歌う者が少なくありません。
けれど川口真由美という人の歌う姿はそういうものとは違う躍動と、美しさがあります。

だから、彼女の歌をただ戦いに調子を付けるための、お囃子みたいにしか見ないことに反対するのです。
私はこの人の写真を撮るときに、もちろんシャウトしている姿や、聴衆を巻き込んでいる姿も撮ります。そこにも彼女の本当の姿があるからです。
けれど不当にも沖縄の人々の意思を踏みにじって基地建設が進められることに対する怒りをぶつけているその姿は「美しい」のだということを示したいと思うのです。
孫として、娘として、母として、人として平和を願い、核兵器の恐怖に抗う姿は、訳知り顔に国際情勢を分析して見せているおじさんたちの、傍観者的なすまし顔とは根本的に異なる生命力を感じるのです。

だから「あるがままに美しく」撮る写真でありたいと思うのです。
この人によって体現されている美しさや生命感を誰か他の人が撮らないならば、私が撮ろうと思うのです。あるいは私もとろうと思うのです。

以前私は川口さんに言ったことがあります。
ジャズやシャンソンを歌ってもきっと素晴らしいだろうね、と。そして彼女もそういうジャンルもまた好きなのです。
ジャズやシャンソンの根底にある人生をいつくしむ精神、また時に差別に抗する精神、不条理と戦う精神が、彼女のつくる歌にもまた流れているのですから、そこにどんな壁もありません。
そこに通底するものを歌う彼女に流れる感情が美しいのは当然だと私は思っているのです。

それで私は人を美しく劇的に撮るやり方でこの人を撮ろうと思うのです。
それは敢えてする演出でもなければ、媚態でもないので、あるがままに撮ればよいのです。
ただ、「あるがままに撮る」ということがすこぶる難事だというだけの事です。

私は彼女の歌う歌を聞きながら撮るのですが、時に涙でファインダーが曇ることがあります。
- 2018/05/13(日) 00:00:33|
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