ご自身を「視覚芸術家」と。
今回のKYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭 に出品されている。
清水寺からもほど近い立地で、東大路がすぐそこだという場所が会場となっている。 登り窯の跡だ。

高いレベルで写真を表現の要素として駆使している作家に対して「写真を撮らせてくれ」というのは幾分気がひける。
だが、撮りたいと思える人にあって言いよどんでいる自分を突き破らなければ写真は撮れないのだから、そこは頑張りどころ。
十度に一度そういうように意を決することができるかどうかという弱気な私ですが、・・・・。

普段写真について語り合える、あるいは考えを聞かせてもらえる機会はほぼ皆無なのですから、こうした機会は極めてありがたいのです。
これがKYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭 の良さでもあるわけですからね。
ただ写真をみせてもらって感心しているだけでは能がないという訳で、「チャンスの後頭部は剥げている!」と。

私がこの会場をしつこく見て回っているところを声をかけてくれたという幸運もありました。

ご自身の経歴というか、人生上の体験や困難な時期のことを聞かせていただきましたので、余計に、表情に対する感受性が増したと思います。
何も知らないで撮るということも多々あるのですが、そういうときにもわずかな言葉や仕草などからその人を推し量るというか読むというかそういう力がポートレートフォトグラファーには必要だなあと感じます。

絵画の歴史と写真の歴史を紐解く話を伺いましたが、写真には人を撮るという宿命があるようだなあと思いました。
ただ、絵画が担っていた「肖像」と同じでよいかというとそこは違うんだと思いますが。
多分その違いを明確につかんで撮るということがポートレートフォトグラフの肝じゃないかと思います。

そういう意味で歴史は古く長いですが、大いに探求してみる価値はあるんだと思っています。
- 2018/05/06(日) 00:00:07|
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