・・・・、ということになるとは私は思ってはいませんが。
マスコミについては依然として社会の一握りの人たちが独占していて、民主的規制は実に心細い状態です。

それに庶民に普及している印刷機が、いったい何を印刷しているのかということ、これが問題ですね。
ある物的条件を手にしても、それを使う側に、時代の声が聞こえていなければ、それはただ単に「市場≒需要者」になって企業のための価値実現者になっただけの事です。

ブログ、フェイスブック、ツィッター、インスタグラム・・・・・
歴史は人々がどんどん社会的結合を広げていくことを必然としています。人々を孤立へ孤立へと追いやりながら、しかし、そのことで相互以前を深めて行って、たがいに結び付かねばいけていけない条件を深化させています。
ナショナリズムで国境が強化されつつ、一方で人々はそこから流れ出して世界の人々がつながります。
それは経済過程がそれを促さざるを得ないから、それに押し流されているというのが事実でしょうが、一たびそれを自覚的に行使すれば、国家という枠に分断された人々は相互に理解し合える物質的条件を獲得しています。

FB上である情報をシェアしあうと「ネズミ算式」に情報は拡散されていきます。
可能性としてはマスコミに決して負けない伝播力を持ちます。あくまで可能性としては、ですが。

民衆は印刷所もラジオ局もテレビ局も持ち始めています。
それを政治がコントロールするするのはだんだん難しくなるでしょう。
問題はどれほど自覚的にこの条件を、民主主義の成長を意識して活用する人々が増えるかです。

逆にビットコインなどの幻想に人々を巻き込む梃子にもなりますし、がらくたのような情報の海におぼれさせる装置にもなります。
人々のルサンチマンの増長や、発言の抑圧のためにこうした条件が現に使われています。

ロウ原紙で、文集作りに励んでいた時からウン十年。
その文集の製本過程で出きた紙の切れ端を糊で繋いでつないで繋いで・・・渡り廊下で結ばれた校舎の廊下を一巡させたことが思い出されます。
その頃から私自身がこれまでの人生で印刷発行したプリントは一体幾万枚でしょうか。ある年一年をざっと計算しても5万枚になりますから、木材をずいぶん犠牲にしました。
人類史的に俯瞰すれば、庶民である個人の発行した印刷物の数量としては驚愕すべきものでしょう。
ですがそれが決して例外的ではないというところに、人類史的今日があるのだろうと思います。

インターネットやモバイルテレフォンなどの機器の普及と並んで印刷に関する事情の変化も、私たちはある別の世界に踏み込んでいるのだろうと感じます。


- 2018/03/16(金) 10:00:42|
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