私は高校生・大学生のころ戦前の学生の在り様に憧れ、また大正デモクラシー期以降の知識人の思想的営為に憧れて勉強していた口ですから、リアルタイムの同級生などとは大分ずれていました。
たまたま同じような問題意識を持つものが大学の頃は後輩に一人いて、それであまり過剰に強くそのずれを意識せずに済みました。弟もまたかなり近似した傾向でしたし。

職場では、少しアングルの違う形ではありましたが、基本的なところ・原則的なところで近い共感する仲間は片手の人数くらいはいましたので、それは励みでした。
けれど大局的に見るとずいぶんずれた人間ではあると思います。
ですから現代を新鮮に生きている若者とは、さらに大きく大きくずれているのだと思います。

でも、そのずれから現代を垣間見るとなかなか面白いものが見えてくることがありますし、今の若者になかなか尊敬できるなあと思うものを見つけることがままあります。
そうでない場合とどちらが多いかと言えば、残念ながらというべきですが、しかし、それでもなお、じゃあ私と同じ世代を見て、どうかとなれば、結局いい勝負なのかな、と。

私の世代にもこの人のような若者はいたのだと思います。きっと。でも私の視界には入ってこなかった、いや入っていても見ることができていなかったのでしょう。
そういう意味で一周遅れというか、五周くらい遅れたところでですが、いろいろ学ばせてもらえそうだと思うとわくわくします。

「人生短いので(笑)、撮影の際にまたいろんなお話を聞かせていただけるのを楽しみにしています。」とこの人のメールにありました。
私はその「人生短いので」を「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」といったくらいの、戒め的な言葉だと理解して、
依頼のあった写真を少し夜遅くなったけれど「人生〔老い先〕短いので」少しでも早くと思って送りましたとメールしました。

それを読んで「笑ってしまった」と返信がありました。
まあこの年になって、正しいの正しくないのではなくてこういうズレをようやく楽しめるようになれたのは成果としなければならないでしょう。

やはりここにも「素敵な人」がいたと、そう思うわけです。

- 2018/02/20(火) 00:00:11|
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