話芸というものも、これはなかなかに奥が深いし難しい。
誰だって「しゃべれる」んだからといったって、だから人を惹きつけてやまない話というものが簡単にできるというものではない。
それは落語然り、演説然り、学校の授業・講義然りです。
「男はつらいよ」の寅さんのタンカ売だって、そうやすやすとマネできるものではなくて、相当の修練が必要です。

柳谷小三治さんの『時そば』を聞くと、いっぱいのしっぽくそばを食べていく過程で、やがてどんぶりの汁が残り少なくなり、汁の底に沈んだ短いものしかない蕎麦数本をすするときに、その汁の残り量や長さというか短さを、すするその音で見事に表現するのです。

この方も相当に勉強されているようでした。

古今亭志ん朝さんは、・・・というか名人と呼ばれる方はどの方もでしょうが・・・・口座の座布団に着くまでに、既に聴衆を落語空間に引き入れていて、最初の一斉の声音でもって、もういまではない、ここではない落語の知己と場所に我々を誘います。
その表情がこれから出てくるだろう人物たちの醸す空気を感じさせて、もはやどこにも、今現在というものも、現実の美濃部 強次という人も存在しないのです。
それでいて、それは見事に美濃部 強次という達人によって古今亭志ん朝が作られ、話が操られているという・・・そういうもののように思います。

写真もそういうものかなあと、ふと考えることがあります。 「ふと」ですが。
それにしても、撮らせていただいて、やはり落語は難しいものだと感じました。
それを逆に言うと「写真というものは芸人にとっては相当酷なものだなあ。」という事です。
私はよく音楽家を撮りますが、演奏の最中にその人の「真顔」というものを画面に捉えることはほとんどありません。
とらえていてもそれと分からないのかもしれませんが。
リハや純然たる練習・レッスンの時を撮ると、その時にはむろん真顔に戻る瞬間があり、その行きつ戻りつが、私にとってはリハ、練習の魅力なんですが。

落語はバカになれなきゃできないがバカにはできない。そういう難しさでしょうか。
- 2018/01/25(木) 00:00:55|
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