季節感の濃厚な写真は年内にあげておかないと・・・・という気持ちもあって・・・・。

百済寺(ひゃくさいじ)は聖徳太子を開基とするといわれます。
私が間違えて「くだら寺」と言っていると「どうして『百済』とかいて「くだら」と読むんですか?」との質問。
そもそも私の読み方が間違っているのですが、奈良広陵町にある寺は「くだら寺」と読みます。

韓半島の三国時代には「コグリョ」「シルラ」そして「ペクチェ」の三国が並び立っていました。
皆さんご承知の通りいわゆる「白村江の戦い」の際には唐・シルラ(新羅)連合に対してペクチェ(百済)、倭連合が対立しました。
東アジアに圧倒的な力を持つ唐は新羅を巻き込んで韓半島の支配を目指し、それに百済が抵抗したわけですが、なんと倭はおよそ勝ち目のなさそうな百済に力を貸そうと援軍を送ります。葛城(中大兄皇子・のちの天智天皇)らがその軍を送りますが大敗北を喫します。外交の大失敗ですね。
ではなぜ彼らがそうまでして百済(ペクチェ)を支援したかといえば・・・・・・・・百済が「くだら」であったからだという説は多分、当を得たものだと私は考えています。「くだら」は古代韓国語の「くんなら≒祖国、故国」がなまったものなのでしょう。 敗戦後百済を逃れてきた百済貴族は倭の中枢に位置づけられます。近代的主権が発達していない時期とはいえ異様な姿です。それが居様ではないとすればどう説明すればよいのか。そこにも「くんなら」説が主張される理由があります。
聖徳太子自体は高句麗とも関係が深いのですがやはり当時の先進地域であった韓半島の文化を(仏教を含めて)大いに学び吸収した人物だったろうと思います。もし実在したとするならばですが。
アメリカに留学して以来、随分と写真撮影に興味を持つようになって、熱心に撮影しています。
もっといいカメラが欲しなあと何度もつぶやいていましたし、こだわって撮影していました。
「…沼」に足を踏み入れる直前のようです。

二人で出かけると1時間で移動できるはずのところを三倍くらいかかるようになったと友人のこの人が言っていました。
この人もまた写真撮影に関心がないわけではないので、それで腹が立つようなことはないのだそうですが・・・・。

ですから、今回の撮影ではこういう場面がとても多いのです。
と言っても私の撮影が主目的で来ているわけではなくて、観光・自主研修が目的なんです。

私が写真好きだという事は百も承知、二百も合点のお二人ですから、私がカメラを向けても大丈夫?なんです。

それにしても本当に仲のいい二人です。
- 2017/12/24(日) 00:00:07|
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