最近になって人物写真を撮ることの醍醐味というものがどういうものか、というか、どういうことかということのある面が次第に判然としてきたように感じます。これまでもそれは見え隠れはしていたものの少しずつ確信になってきたという事です。この意識は、撮り始めたころの私では気づきもしなかったし、誰かに説明されても言葉を実感として理解することは無理だったろうとおもいます。
「人の『生きる姿』に出会う」・・とそういう事でしょうか。
何年も経験を積まないと見えてこないことがた草なるとしたら、職人さんも作家さんたちも門外漢の私が見ているのよりずっと違う世界にいる、違う意識で作品作っているのではないかと思うのです。
ある焼き物の大家とお話していて、「うんうん」と頷いて聞いてはいましたが、その実この方が伝えようと思っているのとはずいぶんこと異なった受け取り方しているのだろうなあと省みて思いました。
つまりエベレストのような山の上に登った人が「山登りは苦しいが楽しいね。」というのを、愛宕さんくらいの山に登った人が「まったくその通りですね。」と言っているようなモノかな。

今日は別の計画もあったのですが、この人からある依頼があってこの場に来ると、この人自身がこの絵に感応して「撮りたい!」ということになったわけです。
こういうところも…先ほど触れたことと意味は違いますが・・・・「人」を撮るからこその面白さですね。

鍛えられ意識して造形されてきたこの人の体の線は注目です。

それにしてもミケランジェロの絵は細部も全体もち密に構成されていて、構図というものについて改めて考えさせられます。
構図は主題のためにあるという事でしょうかね。 構図のために絵を切り取るなんて言うのは本末転倒ですね。

さてますます秋めいてきましたね。(この記事がアップされる頃はもう紅葉は盛りの頃を迎えているでしょう。)

雨が降ってしっとりしています。

青の季節のこの人と玄の季節の私と・・・・。

その二人がこの時間を共有しているって面白いですね。

皆さんはいかがでしょうか。
学生時代の写真はたくさん残っていますか。
私はほとんどありません。友人たちの手には少しばかりあるようですが・・・・。
それで学生たちの姿を見ると、ちょっと思い出の一枚を残してあげたくなるのです。

卒業して郷里に戻ったり、就職先が他府県だったりと、京都を離れる者も多いでしょう。
私はたまたまほぼそのままというか、案に相違して結局大学から徒歩5分後に住むことになりました。

それで京都を懐かしく思い出すとは話題にするとかいう事はないわけで、仲間たちの心境はどうなんだろうと思うのです。

「君とよくこの町に来たものさ 🎶」なんて歌を口ずさむのでしょうか。

鴨川で演奏の練習なんて、今この時は特に何の感慨もないでしょうが、数年もすれば・・・・・。
遠くに見えるのは比叡山です。

大学時代の思い出というか、そもそも記憶さえすでに遠い靄の向こうですから写真があればなあと思います。

振り返れば退職後についてさえ多分数枚の写真しかないと思います。
ですから私がこの世を去れば具体像をもって思い出すことは誰にもできません。家族ですら。

それでなおの事「写真撮りましょうか?」と・・・。
- 2017/11/07(火) 00:00:55|
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