私が撮りたいと思うご本人は良かったのですが、入れたい背景の人物が思わぬ絵(姿)になってしまって、そちらの方が妙に視線を呼んでしまいます。
残念ながらこれはいけませんでしたね。
ピントを掴みながら、意識の片側で背景を見ているつもりなんですが、時としてこういうことが起きます。
無論、思わぬ良い効果という結果オーライもあるんですが、もう少し注意を払わないと・・・・いけませんね。
実は今日は明日からアップする写真を撮ってきたのです。
その人で何が撮れるのかを少しづつ見つけていこうとしているので、いろいろ試みさせてもらっているのです。
それで楽しい・・・・結果的に言えば思わぬ失敗も多かったのですが・・・・時間を過ごしたので、私も少々多弁になっています。
この町の絵書さんといろいろお話を交わすことができました。

「写真は、いい状景だなと思ったら一挙に絵にできるところがいいですよね。」と。
確かにそれがカメラの特技ではありますね。
絵の場合にはそれを自分なりに表現するにしても時間がかかります。
早いスケッチでも5分はかかるでしょう。

しかし、その時間の中で印象を凝縮して、要らないモノは削り、欲しいものは付け加え、再構成して描くということが『絵』にはできますね。
で、写真の場合にはよほど「これだ!」を強く明確に意識できないと、どう撮るかも決まって来ないわけです。
それを「センス」のあるなしにされてもしまうわけですが。
・・・・、そのセンス・・・・どうも私にはないような、そう感じることが多々あります。
先日もある有名カメラ店で写真展が開かれて覗きに行きました。が・・・・・撮るのに使われたカメラ+レンズの性能の良さ、プリントの良さはとても感じましたが、絵そのものにほとんど心が動かなくて、会場を三周も四周もしてじっくりと見直したのですが、・・・・。
たくさんのハイソなお客さんがいましたしプロカメラマンたちもいましたが、写真の前でじっくり語り合うシーンも、見入って動かない姿もほとんどありませんでした。
でもその写真作品を撮った写真家が来ると幾重にも取り巻いてトゥーショットで写真に納まろう、サインをもらおうという喧騒が起こり・・・・。

どうも私には写真の魅力を感じるセンスが根本的に乏しいようです。

じゃあ、私はなぜ写真を撮っていて楽しいんでしょうか。
じつはそれが、よくわかりません。
今、京都では「パリ・マグナム 写真展」が開かれています。
先日、見てきました。
私が身近でいろいろな人の写真を見ていてもあまり心を動かされないのはなぜかということの一つの面が分かったように思いました。
同時に例えば、ブレッソンのある写真をあるギャラリーで何度見ても、今一つ「おしゃれだし、気が利いているし、絵画的素養が豊かだし・・・とてもいいことはいいんだが、それこそ神様扱いするほどの評価を得るのはなぜなんだろう。」と、すごい、素晴らしいと思えなかった理由も分かったように思いました。
それはちょうど小説家や歌人の作品を学校で使う教科書で触れても少しも素敵に思えないのと似たような理由があるではないかと思いました。
やはり自らそうした人の大方の作品に触れる努力をしないとダメなんだという事ですね。
ブレッソンやキャパの思想性をぬぐい払って紹介するような写真展では彼らの写真の魅力は結局わからないわけですね。
キュレータの問題なのかギャラリー・美術館の問題なのか。それは日本の精神文化の問題だと思いますが。
先日の京都グラフィエでアーノルド・ニューマンの作品を見て、写真も芸術たり得るんだと思いました。
そして、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアらの作品を見て、写真もまた思想の表現(この言葉を単なる政治的プロパガンダ、アジテーションだと理解されては困りますが)なんだと確信しました。
いいかえれば、私が見る写真の多くが「目黒の秋刀魚」なんだということが改めて分かったように思いました。
美味しくないわけでした。
- 2017/07/23(日) 00:00:37|
- 絵画
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