私はよくミュージシャンに「リハーサルを撮りたい」といいます。
曲(表現)の完成に至る過程での模索や逡巡、苛立ちさえ撮りたいからです。
それはアーティストであれ、クラフツマンであれ歓迎すべからざることでしょうが。

それに本当に特別に許されない限り、こんな距離と角度で撮るという事は、リハの時でしか、ありえないからです。

この時私自身はステージを上がったり下りたり、袖に走ったり正面に回ったりと駆け回っています。
客席には脚立を置かせてもらってもいます。
リハーサルを見ている他のスタッフや関係者もいるのですしその方々の仕事を邪魔してはいけません。また何より演奏者が「邪魔だなあ!イラつくなあ!」と感じるのでは大いにまずいので、音もたてず流れにも逆らわないでどう動くか、それも課題の一つです。

そうして私自身がステージから転げ落ちて周囲に御迷惑をかけるなんてことは絶対にできないことです・・・・が、これが案外・・私の性格や運動能力から言うと・・・・心配なことです。
私はいつもつい夢中になりすぎますし、ステージからふわりと着地などという事は今の私の運動能力ではとても難しい。
大昔のイメージで飛び降りたり飛び越えたりすれば大怪我のもとです。でも写真を撮るためにはそういう条件も欠かせませんね。
音楽家同士の微妙なやり取りもあるようです。

そしてだんだん出来上がっていきます。

川口さんは度々沖縄を訪れ辺野古などで座り込みをしている方たちと交流し、共に戦いながらその地で感じ取ったことを歌にしています。
彼女の歌にはその言葉を生み出した「現場」があるという気がしました。

沖縄の問題は本土の人々にとってはいつも海の向こうのことです。
本土の人々は沖縄の米軍基地や自衛隊基地によって「守られている」と感じているのかもしれません。そして、国土を守るためには多少の犠牲は仕方がないと「納得」し、ただその犠牲は本土ではなくて沖縄に負わせています。
沖縄が軍事的な行動の根拠地であれば「敵国」の攻撃目標になり、ひいては戦場になるのは、当然その沖縄です。
本土防衛(国体護持)のために、かつて捨て石にされた沖縄は戦後の今に至るまで本土の捨て石のままです。
川口さんの歌にはそのことに対する怒りや一向に改善されない現実に対する苦悶があります。

沖縄の現状は本土民のエゴとご都合主義の鏡だと私は感じています。
そして米軍基地は東アジアの平和の最大の阻害要因であると。 そしてそのしっぽにしがみついている自公+維政権。

京都は祇園祭です。
明日は宵々山、そしてその翌日は宵山で17日は山鉾巡行。神事としてはこの前後に延々いろいろあるわけですが「観光」としてはここが山場ですね。
山鉾巡行の翌日だけでも見ると面白いと思います。鉾が解体されて片づけられていく作業も興味深いものです。
そして例年この山鉾巡行の前後が京都の梅雨明けです。ですから案外山鉾が立つころ大雨が降ります。
そこから間もなく小中学校、高校は夏休み。いいですねぇ。「365日が日曜日」とは違いやはり夏休みはいいものです。今やなんだかんだと短縮される傾向にありますが。
8月16日は五山の送り火です。京都の夏はそれを越えると一気に秋に進みます。
そうしてまた夏が過ぎ、秋へ。
この夏、夏の気配のあるいい写真が撮れるでしょうか。
と、そんなことを言いながら、今は京の町は鉾立も進んで街中はぐっと祭りの雰囲気が高まっています。
菊水鋒です。
髪の感じからして、おかみさん連でしょうか。

色々買うていかはりました。

ここでは街ごとに手ぬぐいや粽を打っています。
私はとあるギャラリーのオーナさんから「お得意様だから」と粽をいただきました。 ありがとうございます。

カメラを持った人の中にはもっぱら鋒を撮られる人、街の様子を撮られる人がいますが、私はやはり「素敵な人」です。
お願いして撮らせていただきましたが、まだお店が開いて間もなしで、こんなことを言う人もなくて「どうしようか」と戸惑い気味でした。

でもこれから数日はずいぶんたくさんの人に・・・・・声をかけられてか、断りなしかは別として・・・・・写真を撮られることになるでしょうねぇ。

- 2017/07/14(金) 00:00:35|
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