裸足で舞台に立っています。
いつもそうされているそうです。
立つ場所を直接に感じて踏みしめて歌う、そういう事でしょうか。

つい劇的な場面ばかりを撮ってしまっていますが、歌全体ではしっかり抑制した部分とで構成されています。

リハーサルですから伴奏のピアニストとの音の表情や呼吸を確認しています。
音楽の演奏は一面では心と体の感受性の表現のようなものですから二人の音楽家が一緒に演奏するという事はとてもとても難しいことだと思います。
それだけにうまくかみ合った時の喜びも大きいのでしょう。ジャズの演奏などでの「意気投合」を見るとそう思います。

本物の写真家とアーティストとの関係も・・・多分・・・・そうだろうと思います。
私にははるかにはるかに遠い異次元の話です。

私はお二人の作り出している空間、空気を感じて、それに突き動かされて「どこをどう撮れというのだ。」という感覚で動き回っています。
ある写真家が「モデルに撮らされていてはダメだ。」といっていましたが、そういう訳で・・そうとばかりは言えないと私は思っています。

こと柄の中の写し取るべきものはそれ自体=対象の中にあるんであって私の思い込みの中にあるのではないのですから。
むろんこれは写真ということの一面ですし、その写し取るべきことというのは私の意識のありようによってしか見えないモノでもあるので話は・・・・話が循環してしまうようで・・・・なかなか難しいのですよね。

こういうことは写真でないとできません。
また一人、私をはるかに超えたところにいる人を見つけました。

「蒼樹殺すにゃ刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい。」
マッタクでございます。とにかく撮りに出られないのですから困ったものです。災害地の皆様のお気持ちからすれば「それがどうした。」という事ではありますが、雨の日は自宅でじめっとしているばかりです。
撮影のお約束をしても「雨ですねぇ。」「降りそうですよ。」で何度も変更、順延を繰り返します。撮らせてくれると言ってもらっている人は仕事現役、学生現役ですから次の予定はなかなか都合がつかないのです。当然ですね。それを何とかやりくりしてもらっているのに「今日の晴れをその日に送ることができればなあ。」という様なちぐはぐもあって、どんどん後ろへ。
雨の日は雨が降るがよろしく・・・とはなかなかいかなくて。
それで仕方なく昔読んだ本を持ち出してポツリポツリと読み直すのですが、本を読むのも体力、脳力が衰えて「速さも持久力も」随分と落ちているのでございます。
『最初の哲学者たち』などを読むと知らぬうちに意識を失うのですが『宗教 その起源と役割』なんかは案外すらすらと読めたり、『資本論はどのように形成されたか』が思いのほか飲み込みやすかったりするのは意外なことで、やはり昔取った何やらの効果でしょうか。
昨日のような湿度が高くて鬱陶しい日には『井上ひさしの 読書眼鏡』ぐらいを読むのが本当はいいのかもしれません。
それにしても新しく本を買う事はついぞなくなりましたから、何年も前の本をまた取り出して読むので「おっ!! この本の二度目の読了は2011年 3月 11日だったのか。」と驚くことも。
そういえば出張先でした。仕事の流れで待機中にテレビで津波の様子が報じられて福島原発が甚大なダメージを受けていることが伝えられていました。なのに、すでに全員が待機する必要のない段階でもあったのに「親戚の安否確認などご心配な方は役割分担をしてお帰り下さい。」などのアナウンスもなく、原発破壊の被害を心配する声も上がらず、私を含むデスクだけが気をもんで顔色を変えているような周囲の落ち着いた雰囲気が異常だなと感じたことを思い出しました。
- 2017/07/13(木) 00:00:30|
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