数日後に大学時代の仲間たちと岡山で会うことになっている。
幹事から送られてきた名簿には「物故」の記入があった。N君である。卒業後会えないまま亡くなられた。
こういうことになるから「3年に一度とか4年に一度会おうよ。」なんてのんきな話にしないで、計画だけはせめて2年に一度、何なら毎年やろうと提案して、皆で合意したはずなのに・・・、前回から5年程が過ぎている。
悔やまれる。

まだ仕事を続けているものもあり、私のように「えっ?!なんだって!お前が写真を撮ってるって?!」なんて言われるようなものもいる。人生様々だ。
そのさまざまに会いに行く。
こういう節目があると、奴らに軽蔑されない程度のことはやりたいなあと思うから、大切な機会だと思っている。

ところで、昨日今日の写真を見ると、露出設定の違いがあるとは言いながら、カメラ・レンズが違うとずいぶん写りが違うなあと感じる。
それで相も変わらず次のカメラについて迷っているのです。履いて捨てるほどのお金があれば全部買い占めて好きなだけ較べながら使えるのですが、無論そうはいきませんし・・・・。

大して長い時間が残されているのではないのにこうして愚図愚図迷うのは人間ができていないというか、悟れてないなあと思います。
いろいろ考えているうちに問題の枝葉に入り込んで、幹を見失うのはいつもの事なのですが。
元来の優柔不断な性格というものが、いつまでたっても顔を出します。
個展をするときに「人さまに見てもらうためにはかれこれの資格が必要だなどと言っていたら、気が付け三途の川のほとりに立っていたということになりかねないのだから、目をつぶって『跳べ!』」と思い定めたからこそ、今度4回目を迎えられる。

今度仲間に会えば「おいお前、えらく年取っちゃったなあ」とお互いに慨嘆するに違いないのだ。そして、しかし、話すうちに「いやいやまだまだあいつもこいつも心躍らせる火を胸にしている。」ということを互いの中に見つけあって励まされることになるだろう。
この職人氏も、描き続け制作し続けて、まだまだ上っていく。
先日の80歳を超えた木彫師もまた「やりたいことがいっぱい出てきて飽きしまへん。」とおっしゃっていた。
決定を後に送らせて逡巡する中で見つけ出すこと気づくこともまた多い。その問題意識から学ばせてもらうことがたくさんある。
それはそれで見捨てたものではない。
が、それでは写真を撮ることにならない。

大先輩たちからは「やあ、君はまだ若くていいなあ。」と言われる。
が、同い年で物故する者の知らせが続くとそうも言っていられない。
急いてことを仕損じても、もって瞑すべしという境地になりたいものだ。
- 2017/05/07(日) 00:00:09|
- 工芸
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